Rhythm Red Beat Black
お笑い特番で炎上した時事問題について。
というわけで、連投のお題で今回は「Black」の話。
年末に放映されたガキの使いスペシャル「笑ってはいけないアメリカンポリス」がいろんなところで物議を醸しておりますが。
なに、浜ちゃんが毎回オチに使われる着替えの段で、ビバリーヒルズコップを題材にしたエディ・マーフィーのイメージで顔を黒く塗ったのが黒人差別だ、と。歴史に詳しく差別問題を考える人が、「ミンストレル・ショー」を想起させるとツイートしただのなんだのと。
えー、前提条件を先に言っておきますと、人間は必ず、必ずどこかで「差別」をしながら生きているはずです。マウンティングだの、格差だの、ランキングだの。じゃあ、それの高位にいる人間が低位にいる人間の真似をしたら、それは即座に「差別」になるんだろうか。
「そんなものは『差別』とは違う。迫害などの歴史的な背景を知らないからそんなことが言えるのだ」という話が聞こえてきそうだけど、果たしてそうだろうか。自分と違うもの、何らかのカテゴライズをして、少なくとも自分がそのカテゴリに入っていないことをどこかで安堵し、見下すということは立派な「差別化」ではないのかい?
さて、簡単に前提を言ったけど、そのうえで今回の騒動の元ネタ=浜ちゃんの黒塗りについて見たけど、エディ・マーフィーじゃないなこれ。どっちかといえばバート・レイノルズじゃないのか。
いや、それはいい。
こうした「差別的な表現」として取り上げられている事象だけど、ではこの場合は果たして「黒人を貶める表現」として使われたのだろうか。自分はそうは思わない。このバラエティの文脈として、毎年浜ちゃんがオチに使われるのはお決まりとなっていること、むしろ「アメリカンポリスといえば」というイメージでエディ・マーフィーが真っ先に出てくるある意味の「ブランド化」ではないだろうか。あの軽妙な語り口、若かりし頃のアクション、日本人が抱く「ビバリーヒルズの警官はあんなにファンキーなのか」という80年代の憧れ、そうしたものがまとまった結晶がエディ・マーフィーとして結実しただけであり、その動きやトークをおそらくコピーできない浜ちゃんに投影することでむしろそのギャップを笑うための記号として使っただけだ。
先に出した「ミンストレル・ショー」なるものを自分は見たことが無い。なにやら黒人独特の訛りや仕草を笑うもの、らしい。ちょっと待て。じゃあ、日本人の芸人で方言や訛りを極端に押し出して笑いを取っているのは、その地域を「差別」しているわけかい? U字工事やカミナリとかは? 郷土愛だからいいのかい?
なんでもそうだが、前後の文脈や意図をすっ飛ばして、最初のインパクトで嫌悪感を抱いてそのまま批判するってのが余りに多いんじゃないかと。実際に今回の番組で、浜ちゃんがあの格好で黒人を貶めるような動きは(自分が思う限り)一つもしていない。共演者は「黒人」を笑ったのではなく「エディ・マーフィーの扮装をさせられた浜ちゃん」を笑ったのであり、差別的意図がないのは明らかだと思うのだが。
逆に言えば、それだけ差別だの相手の気持ちを慮るだの仰る方々は、じゃあ毎回「小ゴリラ」だの「M-1号」だの「浜田ばみゅばみゅ」だのといじられている浜ちゃんは「いじめられている」「貶められている」と解釈するのかい? むしろ業界内で大御所と言われる世代に入っているダウンタウンが、毎回いじられる(それどころか他の年下の芸人同様に身体を張っている)番組であり、「強者が弱者をイジる」構図ではなく「強者も同列にイジり倒される」のが面白いのではないか。
各界のベテランや大御所が「まさかこの人がこんな役を!!!」とお祭り騒ぎとして出演するからこそ面白いのであって、その演出に「やりすぎ」だの「差別」だのと言い出したら何もできなくなるで。
もともと「笑い」と言うのは何かの「異常」に面白さを見出すことであり、その隠された意図が細かくマイナーになればなるほど、それに気付いた時に感服とともに「笑い」が出てくる訳で、非常に高度な人間の特権だと思う。そうした高度なやり取りを禁じて禁じて行った結果、即効性はあるけど意味不明なリズムネタや一発ネタでブレイクするけど2ヶ月もすれば消費されてしまう薄い芸人・ネタが蔓延してしまう。自分達で社会を閉塞させているんじゃないか。
毎回このスペシャルのエンディングは替え歌でダイジェストというのが習わしだけど、ここ数年のシメが個人的にはすごく響く。今回はケツメイシの「涙」の替え歌だったらしいが、調べてみると最後はこうだった様子。
「今年のガキも単純に笑って涙 流してみて呆れるまで
溢れた爆笑は一年の疲れた日々を 笑い飛ばして忘れて
少々の炎上も穏便に怒らないでよ 笑って観て年越しは
5人の願望は単純にバカをしながら 笑って一つ歳を取ること」
年忘れで少しでも笑って、多分相当身体にキツイ企画だけどこの5人がまたこの企画で集まって、無事に年を越せたらと思っているからこその歌詞なんだろうなあと。ダウンタウンも50代半ば、ココリコ・月亭方正も40代後半。だからこそ、若い頃のような反骨精神からのネタではなく、年を取ることへの思いがあるんじゃないんだろうか。
この歌詞を知っていたからこそ、今回の騒動がひどく無粋に思ってしまったよ。
黒人差別は良くない。しかし日本の中で、黒人に対して社会全体で明確な差別を行っているだろうか。専用のトイレだの入店禁止だの。そうした差別が他の国に比べて極端に少ない、知る限りほとんど存在しないからこそ、雑多な文化を受け入れる国なんだろうし、綯い交ぜに成立しているんじゃないだろうか。その事実を知っていれば、少なくとも今回のネタが明確に「黒人差別」を意図しているものではない、と思えなかったのだろうか。
時に思う。
「差別」を口にする人こそ、誰よりも「差別」し、また「差別」という概念から逃れられずに何もかもをそこに結びつけてしまうんじゃないかと。女性の権利主張が激しい某女性教授も、なんでもない話を「女性差別だ!!!」と力業で持ってっちまうしな。よっぽどこれまでの人生で虐げられていたんだろうなあと思っちまうが。
バラエティくらい何にも考えずに笑いなさいよ。
そのために、芸人の人たちがどれほど大変な思いで身体を張ってくれているか。むしろそっちに思い至って「頑張れ!!!」と考えるほうがよっぽど差別はなくなると思うんだ。
長々書いたけど、そういうことですハイ。
進め、たまに逃げても
新年一発目、いきなり「逃げ恥」から。
というわけで新年も7日を過ぎて一発目でございます。
ご存知というか、年が明けたのですでに1年以上前の「逃げ恥」のオープニングですな。三が日に全話一挙再放送という力技を炸裂させたTBS系列、実は意外に視聴率良かったんじゃないのか? と思うもどこもそのあたりの報道はせず。
年始から食傷気味の各種お笑い系特番から、甘酸っぺーーーー!!! このドラマで息抜き。といってもオチは知っていたのでそれはそれでいいんだけど、ガッキーかわええ!!! の一言に尽きると。それぞれの仕草一つ表情一つで、なんというか腑に落ちない感情を抱かずに済むドラマってのは好きですよ。伏線バリバリ、後味の悪さでいろいろと視聴者側に想像させるようなドラマとか、あまりに多くて視聴者がスッキリ見られるドラマがいい!!! と声にならない声を上げた結果が「逃げ恥」の社会現象だったんじゃないかと。
ただし、取り扱っている「契約結婚」という題材。結婚をコスパで考える世代が増えてきたという世相を表していると思うんだけど、結局はシステムだのなんだのより当人の感情や思いやりが勝るもんだよ、という結論に帰着するのがいい。
相手に求めるものはいろいろあるだろうけど、さて自分は相手の条件にどれだけ当てはまっているだろうか、と考え始めるとなかなかに気分は暗くなる。とはいえ無償の愛ってのはこれまたなかなか与えられるもんじゃない。それでも、何かの縁で巡り会って何かの力でお互いに好き合ったわけだし、その気持ちを忘れずにいる努力そのものがきっと「思いやり」につながるんだろうなあと思ってみる。
人間だもの、いつも笑ってはいられないしシリアスな現実問題を解決しなきゃならないことからシビアな言葉を発せざるを得ない時もある。ただし相手がきっとわかってくれると信じる、というか祈る気持ちで発する方が多いかな。ドラマのようにハグ一つで解決できるわけでもないからね。
それでもやっぱり、夫婦が仲の良さを確かめるにはハグは悪くない選択肢だと思うし、子供がそれを見ていたとして多分醜い夫婦喧嘩が絶えない環境よりはずっと精神安定上いいと思っている。
いろいろ理屈こねてみても、単純に「嫁さんがいるんだから初心に戻って大切にしたいよね」というスタートから「いくつになっても独占したいんじゃい」という子供じみた着地点にたどり着いただけなんだけどな。
このドラマを見てて、生活と同時に凝り固まっていく心をたまにはほぐす意味で恋人感を思い出すのもいいなあ、と思った次第。
ブレブレの文章だな。
このネタを書こうと三が日考えていたが、つい先日星野元監督の訃報が。え、「逃げ恥」からなんで仙一さんの話? とお思いでしょうが。タイトルをあえて「恋」にしなかったのはこの伏線です。ご冥福をお祈りしつつ。
思いがかさなるその前に
息子の並べたトミカを見ながら年末に思う話。
2017年も残り4時間を切りました。今年もいろいろあったなぁと思いながら、年末年始の休みに突入。年末頑張ったよ俺。家の大掃除をし、息子と遊びながら年末を謳歌しております。
本屋で立ち読みした時に息子が好きなミニカーの本がないか見ていたところ、どうも古い車に興味が出てきたらしく(というか俺が子供の頃のトミカがまだ残っていたからなのだが₎、ModelCarsのポルシェ特集なんてのは興味持ちそうだなぁとか思ってみたりしたが、時期を逸して翌月の号になってしまい断念。その横にあった、2015年末に発刊されたらしい「おとなのトミカぴあ」なる雑誌を手に取る。
ああ、懐かしいなあ。というか、子供ができてすごくわかる。自分が子供の頃に遊んでいたものが、時間を超えて息子が遊んでいる。40年近くも前のおもちゃで親子が遊べるのって、実はそうそうないことなんだろうな。
俺が持っていたトミカの、現代の車と並べて比べられる。70~80年代と、2010年代。この子が大人になる頃はどんな車が走っているんだろう。その頃、人はまだ自分で運転する楽しさを持っているだろうか。そんなことを考えながら、エンジン音の真似をする息子をじっと見る。ローアングルからトミカを見つめる姿は、子供の頃の俺にそっくりらしい。
大人にしてみればトミカなんて、と思うかもしれない。でも、立派なコレクション趣味に耐えうるものもあるとこの年になって知った。ていうかプレミアムすげえよ。上の画像の中にあるNSX-R、セリカGT-FOUR(ST205)、ランチアストラトスHF、カウンタックLP500Sなんてほんとによくできてる。ホイールどころか超細かいマーキングまで再現されてる。本当はこの中にさらにインプレッサの22Bが加わるのだが、新旧のそろい踏みという意味でちょっとお休み。父ちゃん息子を差し置いて集めたくなるわ。
空恐ろしいのは、息子が本を見ながら「ろーたちゅ」とか「かんたっく」とか「ぜっと」とか、次々に言葉を覚え始めたこと。極めつけは、「れべっとん」(ランボルギーニ・レヴェントンのこと)とか「あてんたどーーう」(アヴェンタドール)。下手なことを教えられない!!! しかしマニアとしては必要なことかもしれない!!! 息子が保育園や幼稚園に行く頃、車に詳しいという個性を携えて行けば友達から一目置かれる...かな? なんて思いながら、父ちゃんは年明けのトミカ博の前売り券の買い方を調べてみる。
そんな息子は、トイザらスに連れて行ってトミカコーナーを見ても、パッケージを開けたり買いたいと駄々をこねない。まだそういう概念がないからなんだろうけど、少なくとも「ものを買わないと自分のものではない」というのは分かっているようで、「これ、あけないね(開けないね)」と必ず元あった棚に戻す。そして「いなない(要らない)」とバイバイしながら次に行く。
そんな中で、さっきのレヴェントンと現行Zのパトカーだけは後ろ髪引かれていたのを父ちゃんは見逃さなかった。特にレヴェントンはリリースからすでに4年、カタログ落ちもそろそろなので、在庫を見たら確保というのが分かる。迷う父ちゃん。
大晦日、一人でふらりと近くの家電量販店へ。あれば運命、なければ残念。コーナーで探すと両方あった。最後の1個ずつ。運がいいな、息子よ。一つ400円弱、ゲームをねだられるよりずっと安上り。
家に帰り、レヴェントンのブリスターパッケージを見せると「れべっとんだ!!!」と小躍りする息子。「あかていいの?(開けていいの?)」と聞いてくる。「ちゃんと我慢して、いい子にしてたからお父さんからプレゼント。何でもは買えないからな。いま開けてあげるよ」。言い聞かせると、うん、うんと目が輝いている。
ああ、こうして親バカが完成していくんだろうな。
対象年齢がもっと上(うちの子は2歳半前)だけど、分かって興味があればどんどん与えていきたい。うちのオヤジもそうして俺を育てた。同年代の他の子よりも、ずっと先のものをいじっていた。メカメカしいものに興味を持ち、大掃除で分解した風呂場パネルのねじとかをもとに戻す俺の横でずっと観察し。本当に俺によく似てる。
いつかは離れていくのは知ってるけど、今は手を握ろう。
今年はたくさんしゃべるようになって、男同士で一日遊びに行けるようになって、おしゃぶりを卒業して、歌も歌うようになって。きっとこれからもっとたくさんできることが多くなっていくんだろう。
だから、今は手を握ろう。一番近くで、大きくなっていくのを見たいから。
そんな息子は、年越しも関係なしで19時には寝てしまいましたとさ。
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さあ、あとは年越し。ゆっくり過ごしますかな。
楓
素敵なCMと聖地設定とそこに住む人達との関わりと。
昨年の今時期だったか、キリン「午後の紅茶」のCMが上白石萌歌さん出演で南阿蘇鉄道の見晴台駅で歌っているものになった。昨年のはCharaの「やさしい気持ち」だったか? 今年の冬はスピッツの「楓」になって、この前から流れているのだが。
【感動CM】スピッツの名曲「楓」cover♪30&60秒ver【午後の紅茶】 #KIRIN
今や様々な人の手で「あのロケ地はどこどこ」「どの場所のどのアングルから撮影した」というのを解き明かして拡散される時代、地震被害からの復興中である熊本に、こうしたきっかけで人が足を運ぶというのは、両面あるにしろ素敵なことかもしれない。
聖地巡礼という言葉が一般の人たちにも知られるようになって久しいが、その「聖地」に人が訪れ活性化するのはある程度までは喜ばしい。でも、やっぱりマナーを守らないヴァカタレが湧いて出るのも事実。嵐がCM撮影した美瑛・富良野で、シンボルだった木が伐採されてしまったりしたことの一因に、観光客のマナーの悪さがあったとのこと(哲学の木については所有者の方が木の寿命を考えたのもあるそうですが)。
確かに自然物だったり、人が居ないからと写真を撮ったりはするかもしれないけど、基本的にやっちゃいかんことってあるだろう。先の木の話では、私有地に勝手に立ち入ることがマナー違反とのことだが、当然だよ。農家の方にとっては私有地=畑なわけで、生活の糧になる場所だ。そこに無遠慮にズカズカ入ってこられる事を想像したら、撮影許可の看板の一つも探さないもんだろうか? 都市部の人で考えれば、庭の家庭菜園の中に珍しい木があるってんで他の作物踏み荒らして至近距離で写真撮るようなもんだ。
熊本については、報道が下火になっただけで今もずっと復興作業が続いているだろう。東北にしたってそうだ。現地の人たちはその中で自分の生活の為に戦わざるを得ない。そこに、観光収入になる話題が出ることは良いのだが、その対応で更に疲弊することがあってはならない。
折角の素敵なCMが、現地の人たちの生活を明るくする面のみで収まって欲しいと切に思う、休みの日の夜明け前。
Metamorphose
レノボのYOGA BOOK with Windowsの使用感など。
というわけで、本日なんであんな時間に前の日記をアップしているのか疑問だった人もいると思うので種明かし。日帰りで出張にて、機内の無料WiFiで接続していたのです。
タイトルは10年以上前のGACKTの曲ですが。Metamorphose。「合体」「変形」は男の夢というのは定説であり異論はないと思うが、先月の東京一人旅で手に入れたYOGA BOOKの話。2In1という形式の、ノート風の使用感とタブレットの手軽さを兼ね備えたうえで、物理的なペーパーを使ったインターフェースとの共存のような、ある意味かなり突き抜けたコンセプトのYOGA BOOK。実際この日記も前回のエントリもYOGA BOOKで書いているのだが、徐々にいろいろ見えてきたのでちょっとレビュー。
とりあえずWindows10が動く10インチマシンとして購入したのだが、2週間以上経った今も基本のセットアップが終わった程度。というか、あまりメインマシンのように何でも入れるような使い方ではないよなあ、あくまで文章や手書きのあれこれをアウトプットするツールとして考えるのが正しいのではないかと考えてみる。
このマシンの最大の特徴である、haloキーボード。物理キーと全く同じとはいかないまでも、慣れてくればかなりの部分までアジャストは可能。ポジションの置き方はコツがいるけど、それさえ乗り越えればまぁタッチパネルのソフトキーボードをいじるよりははるかに速い。何より、付属のRealPenを使ったペンタブレット的な使い方は、絵心のない俺でも何か描いてみようか、という気にさせてくれる。
ガチンコの(趣味的)デジ絵描きたる嫁が「結構描きやすいんじゃないこれ」と一定の評価。とか言いながら30秒足らずで息子の似顔絵描いていきやがった...。
そこここのブログなどで、「性能的に物足りない」とか「売った」という記事もあってそれはその人次第だから構やしないんだけど、この値段の一芸に秀でた(もしかしたら時代のあだ花になりかねない)マシンに、あまりに高い期待をし過ぎてやしないだろうか、と。こういうクリエイト系のギミックを内包したマシンって、使い方の発想ができるか否かで評価がガラッと変わるからなぁ。
自分はこういう日記を書くのに、メインマシンのX1 Carbonはもちろん頂点として君臨しているものの、こうした出先に持っていくマシンとしてYOGA BOOKの軽さはありがたいし、家の中でも確かに使いやすい。いずれ物心がついていたずらするであろう息子にだって、いつか譲ったら手書き機能は大きく子供の絵心を刺激するかもしれない。
地味に昔のマシンを処分しきれない背景に、思い入れはもちろんのこと息子が存分に遊び倒せるマシンを置いときたいなぁ、何て思っている側面がある。今日びキーボードのタッチタイプの一つくらいできなければ学校でも置いて行かれそうなデジタルネイティブ世代、運動は苦手だけど、親父としてそれくらいは教えてやりたいし、ドヤ顔したいんじゃい。
そんな野望を胸に秘め、まだまだ出発時間まで時間があるので日記を書く。思考の整理と表現のプロセスをする時間がなかなか最近取れないからなぁ。あ、一応SIMフリー版を買ったので格安SIMで出先で使うのも考えてるけど、どれくらい使うか思案中。今のところはテザリングで様子見。ワイヤレスってすごいよね。
だんだんとっ散らかりつつあるのでこれにて終了。
Christmas Chorus
クリスマスプレゼントを探して幸せを感じた話。
息子と甥っ子たちにあげるクリスマスプレゼントを買いに、人のあふれる日曜の札幌へ。まだまだプレゼントはおもちゃがいい小学生の甥っ子、とにかくトミカが大好きな息子にどんなプレゼントがいいか、妹に相談。甥っ子はベイブレードとマインクラフトにはまっているらしく、上の子にベイブレード、下の子にマインクラフトのレゴを。息子はCMで流れるトミカパーキングにべったり張り付いていたため、デラックストミカビルと迷ったもののトイザらスの人気3位に入っているらしいトミカパーキングに決定。
クリスマス+トイザらスのレジ行列がすさまじいことを知る。
ていうか、クリスマス商戦ってこんなすごいの? おじさんはびっくりしたよ。駐車場がどこも満車、店内はごった返し子供のカートは全部出払ってすれ違うのも大変。公務員のボーナスが出た直後の関係もあるかもしれんけど、こりゃすげえ。
札幌の駅前周辺も回ってみたが、売れ筋は在庫を示す看板が出ていたり人気の商品はとっくに売り切れていたり、仕方なくスマホで検索したら転売屋がバカみたいな値段付けてたり。これはまさに戦場!!
しかし今のところあまりマニアックな商品を欲しがらないだけまだましと考え、数軒はしごを覚悟していたのだが、ヨドバシで一通り手に入る。両手に大きな紙袋を下げ、そこかしこのイルミネーション輝く道を通りながらふと思う。
あ、いまこれが幸せなんじゃないのか。
幸せな宝探し
子供の喜ぶ顔を見たいがために、いい大人たちが一斉に本気で探し物。ある意味で宝探し。疲れた顔をしているけど、どこか嬉しそうな。
甥っ子の方が息子より数年先に生まれて、「予行演習だぁ」なんて言いながらプレゼントを買ってたけど、やっと自分の息子に買ってやれる時期が来たんだなぁ。
ああそうか。
こういう「父ちゃん」になるのが、俺の夢だったのか。
本番のクリスマスまでまだ10日以上。子供のころは自分がもらう側で指折り数えていたけど、今度はあげる側で指折り数え。いいクリスマスを迎えられますように。
人生は夢だらけ
夢について考える話。
この曲椎名林檎だったんだなぁ。
朝っぱらから昨日当日返却で借りたDVDを返しに開店前のツタヤへ。返却ボックスへDVDを投函し、家に戻る道すがらふと思い立ってこの曲のPVをYouTubeで見る。
なんというか、やっぱりこの人って天才なんだろうなあ。
結構その力強さや世界観に抉られることもあるんだけど、何年かに数度ふとはまる曲に出会うのもこの人なんだな。「能動的三分間」とか、最近では「おとなの掟」とか。
さて、夢だらけのお話。
生まれてこの方夢らしい夢を持った記憶がない男なのであるが、夢ってどういう風に持ったらいいんですかね? 物欲だけはそこそこあるんだけれども。
例えば何者かになりたい、職業であるとか地位であるとかが明確にある人って、それはどうやって「そうなりたい」と考えたり、決断したりしたんだろう。常々疑問なんです。
小市民なので、スケールの大きすぎる夢とやらは思い浮かばず、目の前にある生活を守ることが第一義にせざるを得ない立場から、何気ない日常が続くことを望むのが精いっぱいだったり。でもそれって、実はものすごく難しいことなんじゃないかと最近思ってみる。だって人生を何事もなくって、ノーミスで人生ゲームを進めていくようなものじゃないだろうか。大なり小なり波乱や浮き沈みがあって、人様に知られることなくその人なりのドラマが必ずあって、今の目の前にいる家族や大事な人たちを含めて何事もなく平穏に過ごすということのいかに難しいことか。
ささやかな夢も、ある程度のレベルまでは結局金銭で何とかなってしまうかもしれない。人にもてたいとか遊びたいとかだって、ある程度までは、ね。
そう考えると、いつも「夢ってなんだ」と考えてしまう。
「近寄れば悲しく、離れれば楽しく見えてくるものでしょう」
という歌詞だったり。なんだか深く刺さったのが今朝のお話さ。
とりあえず、息子と甥っ子たちのクリスマスプレゼントを何にするか、大人の役割として「夢」を与えられたらいいな。
てなわけで今宵はこれまで。