Think Like Talking.

趣味や子育て、ゆるい生活をつづる備忘録

M.F.S.B -Mother,Father,Sister,Brother-

 明るい抑うつ闘病記、ここでちと番外を。

 

 まず抑うつについて念のため知っておいて頂きたいこと。

自分が身を持って発症し治療を受けた範囲でのお話なので、

厳密な(正式な)医療知識ではないことを前提に読んで頂きたい。

 

 自分の主治医からの説明では、自分は厳密な「うつ病」の

レベルには至っておりません。その手前、うつ病になる一歩前の

段階が「抑うつ症状」ということ。「うつ状態」というのが

正しいのかもしれません。

 

 よく一般的に「気分の落ち込みが2週間以上」というのが判断の

一つの基準と言われています。恐らく、落ち込みの原因になる事象

(悩みだったり環境だったり)がある程度普通の状態で解消されるのが

それくらいで、それに伴い気分が上向くというのが根拠かもしれません。

ただし、抑うつうつ状態の気分の落ち込みというのは自分が体験した

範囲で言えば「あー、仕事嫌だな」とか「うつだわー」というレベルでは

全くない。

 

 仕事はしなきゃならない。この気分は適応できない自分の弱さだ。

嫌だなんて言ってられない。他の人はできている。やらなきゃ。

 

 と、頭で考えるのです。しかし、時間の進行で状況の好転する見込みが

無いこと。前の日記でも幾つか書いていたように、そのための自分の

行動力・思考力が絶望的に落ちていること。思考で振り払っても、

無意識の奥底から絡め取られる様に身動きが取れなくなる。

 

 というのが実感。

 

 ここで、「明るい抑うつ闘病記」にふさわしいちと明るい話を。

 

 自分は環境変化・発症から1ヶ月ほどで通院を開始、4ヶ月ほどで

ベイルアウト(休職)。そこから復職訓練治療を約4ヶ月通って復帰。

リハビリ勤務を含めて2年ほどで薬を全く服薬しなくてよい、いわゆる

寛解」という状況に戻れました。

 この復職訓練治療 (以下デイケア)を受けるか受けないかで、再発の

リスクが劇的に変わると言われています。受けないで回復度合いを

診察のみで判断して復職した場合、半年から1年程度で再発・再休職

するという確率が非常に高いとのこと。自分は元の性格や周囲の環境、

協力もプラスされデイケアを最後まで受けることで、復職から間もなく

2年半を迎えほとんど再発の影は無くなっている。

 

 もちろん、気分の落ち込むことや、数々のトラウマに悩まされる

ことは否定しない。しかし、それを大きな落ち込みにすることなく対処し、

弾力性のある思考を「ある程度」思い出すことで、バランスを取った

生活をできるようにはなりました。

 

 残念ながら、もっと重度の抑うつうつ状態の方もたくさんいます。

そうした方は、更に長い年月や大変な治療が待っています。

 

 それでも、実感して言えることは「人間の体は複雑なシステム」であり、

抑うつは単なる「気分・気の持ちよう」ではないこと、言ってしまえば

脳内物質の欠乏からくる立派な「病気」の一つだと。その物質をどうやって

増やしていくか、健常な(病気になったことがない)人は普通に分泌できていて、

その分泌が上手くいかない状態をどう回復するかという、内科的な治療も

範囲に入るのだと。

 

 そのための一つの手段として、運動があり、自分にとっては膝に負担を

かけない(高校時代に両膝を手術しているので)運動といえば

 

 自転車

 

 だったわけですね。ここでようやく自転車がつながってくる(笑)。

 

 そして自分がここまで戻って来られた大きな要素として、家族のある。

 

 真横で壊れていく旦那を見ながら、夫婦であることを放棄することなく

一緒にいてくれた嫁。

 俺の性格形成の責任を感じてしまった母。

 普段と変わらない態度で接してくれた父。

 当時遠く本州にいて、「すぐそっち帰る!!!」と心配してくれた妹。

 俺の病気を知った後も、静かに見守ってくれた義理の父母。

 

 身近な人達が、幸運にも包み込むように見守ってくれたおかげで、

今自分がこうして過去に向き合い日記を書けている。

 

 家族の話が出たところで、どうしても自分の備忘の為に書いておきたい

ことがある。しばしお付き合いを。

 

 うちの父親は、元営業マン。

 酒飲み、スモーカー、パチンコ大好き。声はデカイし笑い声は更にデカイ。

酔っ払えば気前も良くなり、明るいというのはこういうのを言うのだろうと

小さい頃は思っていた。

 自分が成人し、仕事をするようになり、その父のキャラクターというのは

営業の仕事をする上で何とか作り上げたものだったと知るようになる。

自分が悩んでいた頃に母との話の中で、元々父が話下手であること、

営業で月末ノルマの度に吐くほどのプレッシャーを受け続けていたこと等。

 

 それでも父は、晩酌で焼酎を飲むと俺を相手にケセラセラとばかりに

気楽に生きろと同じ話をするのだった。

 

 俺は父が字を書くのを余り見たことが無い。

 母曰く、「あの人は字が下手」とのことだが、俺が見る限り昔の人の

字で別に下手とは思わない。何かの申し込み用紙や年賀状の宛名書きで

仕方なく手伝う父の字くらいしか見たことが無い。

 

 父から手紙をもらったことが2回だけある。

 一度目は、幼稚園の頃。肺炎と感染症を併発し、1週間ほど入院した時。

子供に分かるひらがなと簡易な漢字で、頑張れというような内容だったと

思う。学校に上る前の子供なりに泣いた記憶がある。

 

 二度目は、抑うつがひどくなり始めた5月の頃だった。

 嫁と一緒に週に何日か実家に泊まり世話になっていた時。朝の出勤前、

居間のテーブルに一枚のチラシが置かれていた。裏が白紙のチラシに、

短い文章が書かれていた。

 

「○○(本名)が辛いのはわかっている。お前がいつか笑顔になれるよう

 父は願っている」

 

 というような内容だった。

 

 朝から、声を出さずに泣いた。自分は小さい頃から、泣くときに声を

出すことができない。何か名文であるわけではない。ただ、本当は

繊細な父が、60を過ぎて涙もろくなった父が、どんな思いで子供である

俺の姿を見なければならないだろうと考えて、涙が出た。

 

 

 実家に世話になる少し前。まだ家族に「大丈夫、大丈夫、頑張る」と

つぶやいていた頃。何かの用事で俺一人だけで実家に行くことがあり、

家族と話をしていた。その時も、「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせて

いたように思う。

 晩酌の後だったのだろう、父が居間のソファにゴロンと寝転がり、うたた寝

していると思った。何度目かの「大丈夫、大丈夫」で、父が突然怒鳴った。

 

「お前、いい加減にしろよ!!!!」

 最初は何が起こったのかわからなかった。

 

 父が横になりながら、涙を流しながら怒鳴っていた。

「俺は、俺達はお前の親だぞ!!! 息子に何もできないのがどんな気持ちか、

 分かるか!!! どうしてこんな時も頼ってくれないんだ!!!」

 

 母も声を上げて泣いた。俺は俯いて、やはり声を上げずに泣いた。

 それから、週に何度か実家に世話になるようになった。

 その父の怒鳴り声と涙を知っていたから、その「手紙」を書いた

父を想像して泣いた。

 

 死にたい、と思ったことは無い。みんなのために、治りたいとだけ思った。

 

 その「手紙」は、今も引き出しのどこかにある。深い場所で、大事に

取って置きたいと思う。

 

 父の話を取り上げたけど、もちろん家族それぞれ自分をこの世界に

引き止めてくれた話はあるけどそれはまたいずれ。

 

 とにかく、周囲の人の支えって、抑うつの治療に大きなパートとして

関わってくるという話でしたっと。