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変わりゆく変わらないもの

A LATCHKEY

 タイトルは93~94年F-1中継エンディング。


A Latchkey - YouTube

・セナ没後20年

  気がつけば、自分も37になり、34で没したセナよりも年上になってしまった。

 一般的に命日は1994年5月1日だけども、自分にとってはその翌日(翌朝)の中継録画とニュースで初めて知った。ので、敢えて日付が変わった今日、日記を記す。

 

 一般に日本のF-1ブームがバブル期真っ盛りの90年頃から92年辺りを指すなら、自分はその頃見事にストライクでF-1を見ていた。父親がホンダ党で、ディーラーから事ある毎にマクラーレン・ホンダ絡みのグッズを頂いていたのもあって、自然と目はマクラーレンに向き、しかしてひねくれ者の自分はセナよりプロストファンを公言していた。身長の低い自分、プロストと同じ身長なのとより理論的な部分にシンパシーを感じる嫌な中学生だったもので(笑)。

 

 とは言え、セナも決して嫌いだったわけではない。贔屓はマクラーレンフェラーリ(後にティフォシであると公言した時期もあり)、セナがフェラーリ入りしたらなぁなんて妄想もしたくらいにして。

 

 セナが死んだその日、いつもの様に高校へ向かう列車で、当時付き合っていた彼女と言葉少なに学校に向かったのを覚えている。教室の中は、F-1ファンのクラスメイトが泣いていたり、余りF-1に造詣の深くない人たちでもただならぬニュースに興味を持っていた。異様な雰囲気。

 

 多分、実家の自室の押入れには、94年サンマリノのF-1速報やグランプリ特集がしまってあると思う。ホンダディーラーから特別に手に入れた、フォトグラファー・金子博氏の写真を使った大型カレンダーだったかも、未開封で置いてある。ずっと使えないままのテレホンカードも。意外に色々残っていたりする。

 

 最近のF-1しか知らない人に取っては、全くなんのことかピンとこないのだろう。シューマッハ全盛期=2000年以降のF-1から入った人にとっては、名前だけ知ってるという程度の。自分たちにとってのジル・ヴィルヌーヴのように。

 

 それでも、1991年ブラジルのゴールライン直後のピット交信での叫びや、1992年モナコの奇跡の5周、勿論89年・90年の鈴鹿事件等、セナが残した様々なシーンをリアルタイムで見ていたのは僥倖としか言い様がない。きっと時代時代でそうした伝説はあれど、今を生きる我々が20年経った今ですらこんなにも色褪せずに語れる、もしかしたらあの時代は奇跡だったのかもしれない。セナ、プロスト、マンセル、ピケ。そこにベルガーやアレジ、シューマッハたちが一癖も二癖もあるキャラクターで毎回ドラマを繰り広げる。なんと贅沢な時間だったのだろう。

 

 妄想癖ついでに、当時からそうだったらいいなと思うことがある。本当に妄想の域なので、笑い飛ばして欲しい。

 セナが死んだ、というのは実はカモフラージュだったら。

 前年のプロスト引退でモチベーションを失い、望んで手に入れたウィリアムズのマシンで戦う相手をどうしても想定できず、そこにサンマリノGP予選でのラッツェンバーガーの事故死。様々な事に疲れ果て、引退したとしてもメディア等に追い回される日々を、物静かなセナが望んでいなかったとしたら。

 実はあの事故で「死んだことになり」、別名で静かに今も暮らしていたら。F-1を離れるために、自ら描いたシナリオがあったとしたら。

 

 …なんて思うのだけど、勿論現実ではセナはあの時点で亡くなっている。第一敬虔なクリスチャンであるセナが、死を冒涜するような行為はしないだろうけど。

 でも、それほどまでに、どんな形であれ生きていて欲しかったのだ。例えレースは出来ずとも、普通の生活を送って静かにF-1を見守るような。

 

 まさに2014年5月現在、奇しくもセナが死んだ年にタイトルを取った「皇帝」ミハエル・シューマッハが生死の淵をさまよっている。回復の兆しが見えるというニュースも聞こえるけど、まだはっきりとしたものではない。願わくば、セナと違う道を歩みセナが叶わなかったF-1の未来を見据え続けて欲しい。

 

 様々書きたいことはあるけれど、今宵はこれまで。