Think Like Talking.

趣味や子育て、ゆるい生活をつづる備忘録

人として

 なるほどね、という印象だね。自分もこうありたい、という考え方。

 

・人として

 まずはこちらのリンクから。

「にわかセレブ」の生態と没落 銀座ホステスが明かす「本当のお金持ち」 (1/5ページ) - SankeiBiz(サンケイビズ)

 

  常々、自分の品格について考える。一般家庭の出身だし現在だって中流ではあるものの、できることなら「粋」に生きたいと思うのだ。

 

 前提になる自分の持論として、「人に良く思われたいなら人に良くすることを躊躇わない」というのがある。綺麗事とわかっちゃいるけど、基本的に自分に関わった人は幸せであって欲しいし、余程のことがない限り人とわざわざ敵対する必要もないなら、ニュートラルでいればいい。互いの心構え心遣い一つだけで、気持ちのいい日常が送れるのだ。

 

 冒頭の記事の話に入って行くと、サービス業の端くれとしてやはり「お客様」と呼びたくなる人柄の人や「客」と呼び捨てたくなる横暴な人は厳然と存在する。人は見かけによらないという言葉は、ある部分では正解だし(特にさっきの記事の中の「本当のお金持ち」という方々)、ある部分では「いややっぱり見かけは中身がにじみ出る」と反論してたくなる部分はあらぁな。

 

 よく、些細な事でクレームを上げる人種がいる。そういう輩は、大体どこに行っても些細な事が気に入らない(自分が優遇されないだのせせこましい値切りをするだの)。そして居丈高に怒鳴り散らし、その場だけのちょっとしたサービス優遇を受けて捨て台詞吐いて去っていく。キムタマ(金○)ちぃせぇなぁ。当然後に残る「あーあ」という空気。

 いかがか、こういう人間に「良いサービス」をしようと思うだろうか。や、結果的に次回似たような「良いサービス」が提供されるかもしれないが、それは決して「上客への心からのサービス」ではなく

 

「ゴネられると面倒だから適当によくしとけ」

 

 という「後ろ向きなサービス」にすぎない。そしてそんなことをどこでもやるもんだから、いよいよ各所のブラックリストに載ることになる。大体そういう人種は似たような格好・似たような言動・似たような理屈と似たような「顔つき」してるもんです。

 

 ああもう...本当にそういう人間絶滅してくんねぇかな。

 

 中途半端に金持ってたり、地位のある人間に多いかな。だから冒頭の記事そのまま、ものすごく覚えがあるんですな。カネの使い方というか、これもまた持論だけど

 

「品性は金で買えない」

 

 のをまざまざと見せつけてくれるというか。

 

 つい先日、とある場所でいかにもな服装・アクセサリー・雰囲気の口の悪い色黒のおっさんがいらした。おっさんと言っても恐らく年の頃は50手前くらい。持ち物から恐らくはそこそこの年収なんだろうなと見受けたところ、やっぱり中小企業のシャッチョさんだった様子。ああ、社員大変だろうなと余計なお世話を考えるくらいにして

 

 話をすっ飛ばして脱線すると、自分は長年メインのPCをThinkPadで統一している。このThinkPad、長年のファンが付いていることでも有名なのだが近年そのファンも高年齢化し雲行きが怪しくなっている。

 まぁその雲行きの話は後日別の機会にみっちり書くとして、端的にいうと「古株のファンが昔は良かったと事あるごとに喚き出す」という。やれ品質が下がったのサポートがなってないだの。で、メーカーにクレーム入れただのこんなやり取りで怒鳴りつけたの出るとこ出るだの謝罪要求しただの...。どんなハイエンドだと思ったら10万前後のミドルクラスで値引きガッチリのマシンで。

 

 いい大人のやることかよ。暇人が

 

 なんでこの話を出したかというと、昔と今のPCの値段と、購入経費における意味合いが変わってきていることが、金持ち・にわかの視点を比較できる材料だから。

 昔はそれこそ安いモデルでもノートPCは20万を下らない、高級モデルだと70万を超えるほどの、今で言う「プレミアムアイテム」だったわけで、それこそサポートは至れり尽くせり、性能はともかく10年使えると思うほどの作りのよさだったりしたのだ。

 しかし今は国際的な低価格化が進み、安いモデルでは5万を切るのは珍しくない、上位モデルにてんこ盛りしても20万をちょっと超える程度のボリュームゾーン。つまり取り巻く環境が劇的に変わっている。一つのマシンを丁寧に使い続けるよりも、不具合があれば買い替えたほうが早いというご時世(コレも余り好きじゃないけどな)。

 そんなご時世で、そのくらいの値段のものに何を過剰に求めているのかと。大の大人が10万しない値段のものをそこまでヒステリックにクレーム入れる必要があるのかと。

 

 最初の話題に紐付けるなら、恐らく「本物の金持ち」なら恐らくせせこましく下位モデルを選んで細かくケチをつけることはしないで、必要十分な性能のものを選んで「あくまで道具」と割りきって使うんじゃないかなと。それが上位モデルかもしれないし、合理的に下位モデルかもしれない。そうした「心の余裕」こそが、本物とにわかを分ける境界線じゃないかと。

 

 自分も金に余裕など無い。それでも、物の値段に価値を見出し、その価値があると思えば黙って買うし、ないと思えば別の物を検討すればいいと考えている。納得する買い物を心がけるから、言いがかりに近い値引きやサービス要求は絶対にしない。呼吸技のように一気に条件交渉することはあるものの、相手の利益分をなくすほどの無理は言わない。買う側・売る側が双方それなりに幸せになれる買い物が、どちらにも後味良く気持ちの良い買い物になるからだ。自分が買った後に同じものを誰かが安く買ったとして、それはそれでその時にその条件を引き出せなかった状況であり、別の部分でいいことがあるだろうと気楽に構えている。

 

 そんな生き方だから、大抵のお店で良くしてもらっている(と思う)。何故か数回行っただけの(それも高い買い物はしていない)店で顔を覚えてもらっていたりということが数知れず。とてもありがたい話だ。それを「店にいいカモにされている」と捉えるか、「それを気づかせない程気分よくサービスしてくれる店」と捉えるか、それこそが今回のテーマの大事な部分かもしれないね。

 

 客だって店だって、結局は人間なのだ。

 コンビニのレジで、ファミレスのレジで、職場のビルの清掃の人へ、どこだっていい。「どうも」でも「ありがとう」でも伝えられる心が、金だけじゃない何かを呼びこんでくれると信じている。そして、少なくとも今のところ俺の人生においてそれは事実だ。

 

「お客さまは神様」という言葉があるが、実は好きではない。神には「貧乏神」も「疫病神」もいるのさ

 昔読んだ漫画「バーテンダー」で、「お客様を神様とした瞬間に、金を運ぶ対象としか見なくなる。それ以前に人であることと向き合うべき」という趣旨のエピソードがあった。綺麗事と言われても、どこかでそうした原点を持っていたいと思う。金それ自体を崇めるか、人との関わりの周りに結果的に金が巡ってくるか。そうした姿勢が、今回の話の根底にあると結論づけつつ今宵はこれまで。