Think Like Talking.

趣味や子育て、ゆるい生活をつづる備忘録

空と君のあいだに

 久々に「明るい抑うつ闘病記」。デイケアの詳細は書けないので、その間に行った「内省」などに付いてしばらく書いていくことにしましょうかね。今回のテーマは「憎しみ」。

f:id:rosso13:20140815112217j:plain

 

 内省と言うのは、言ってしまえば自己分析の深い奴とでも思っていただければ。抑うつ・鬱になった経緯や原因の分析、そう考えた自分のロジック、そのロジックが出来上がったと思われる過去の出来事等、自分の場合は現在を分析してだんだん過去に遡っていくようなプロセスだった。人によってはトラウマの扉が重すぎてその前で立ち止まってしまい、何年も治療に掛かる人もいたりする。一応自分はそこまでのトラウマは無かったようで、すんなりいったのも治療が早く進んだ要因だと思う。

 

・空と君のあいだに

 言わずと知れた中島みゆきの曲。どっちかというと槇原敬之がカバーしたバージョンの方がスッキリ聞けて好きだが。

 

 余り人を憎まなくなった。

 若い頃、特に10代の頃や20代中盤くらいまでか。冗談混じりに「味方じゃないなら敵」「世の中は2種類しかいない。いい奴か悪い奴。」などとうそぶく小憎らしい若造だった。

 他の人はどうかわからないが、自分は基本的に自分と合わない人間は特段付き合う必要はないと考える人間。この基本スタンスは変わっておらず、仕事など公的な場ではそれなりに軋轢なく接するようにしているがプライベートでは全く関わりたくない。会社を離れて自分の時間にまで侵食されたくないというわけで。

 とは言え単に人付き合いが苦手で、友人と呼べる人物ともどうすれば楽しんでもらえるかとか考え始めると、おいそれと遊びに誘ったりできない側面があるので、周りから見たら判別がつきにくいかもしれないが(笑)。

 

 嫌なことがあったり、明確な敵意を向けられれば、やはり自分も人間なので敵意で返し始める。ただし、明確なダメージを与えることではなく、「ああ、そういうレベルの人間か」とカテゴリ分けしてその後の付き合いは警戒エリアに入った状態になる。これが自分のいわゆる「敵認定」となる。

 ただしここで注意が必要なのが、「敵認定」=「憎しみの対象」ではないということ。自分にとっての「憎しみ」とは世界から痛みを伴っての消滅を望むようなことであり、人生での接触回避という程度のレベルが「敵」という辺りのイメージで。

 

 というカテゴリ分けのため、余程のことが無い限り「憎しみの対象」というロックオンはないということになる。

 

 そう、そこまでの憎しみを抱くことは、本来人間には滅多にあることではないと考えているのだ。生死に関わるような因縁であったり、人生を左右するような悪縁であるような場合にこそ「憎しみ」を抱くのだろうと。

 そのため、自分の中ではたいていの場合「敵認定」で終わってしまう。無視であるとか社会的排除であるとか方法はいろいろあれど、その手段を想像したところで大体自分が「敵認定」した相手は自滅するか他の要因でひどい目に遭う。俺が嫌だなと思うような、もしくは何らかの実害を受けるような相手は、概ね他の人間にも同様な悪印象があったりして、様々な要因で自分の周りからフェードアウトしていったりする。

 

 何かの神様でもついているのかと思うくらいだが、昔からそういうことがマジに起こるから不思議なのだ。俺の気分を害した(逆鱗に触れた)相手というのは、かなりの確率で悪いことが起こるというか。抑うつになった頃、取引先の電話でえらいこと喧嘩腰でまくし立ててきた相手が1週間後に別の部署にすっ飛ばされてたとか、フリーターの頃に面接を受けに行った企業の面接担当と一戦交えたらその会社自体にアウトなことが起こって一気に規模縮小したとか、理不尽なパワハラ紛いの扱いをして来た上司が北京に飛ばされたとか胃癌で全摘出したとか頸椎ヘルニアで2か月入院したとか。そういう話がザクザク出てくる。なんだ、俺はどこかの御曹司で知らない間に見えない力が障害を排除してるとかって漫画みたいな展開か!!! と思うくらいの確率で。

 

 そういう理由もあって、なるべく人を憎まないで済むよう、穏やかに生きております(笑)。

 

 まぁそれは冗談(起こったことは全部本当)として、人生にそこまでして憎むことが何回あるだろうかと考える。時間が過ぎて、死ぬほど憎んだ相手がいたとして、その憎しみを維持しながら生きるというのは単純にものすごく人生の損だと思うのだ。はい、ここでようやく今回のタイトル「空と君のあいだに」が出てくるわけで。

 

「憎むことでいつまでも あいつに縛られないで」

 

 という歌詞があるのだが、まさに自分もそこを考えてしまう。そいつのことを考えないだけで楽しい、考えたらbadな気分になるというのなら、楽しいことの方を向いていた方が絶対にいい。ましてそんな地雷がたくさんあったら、足の踏み場を探すように様々なものを避けていく人生になってしまう。

 だから、なるべく憎むことではなく、それなら切り捨てていく方が絶対にいいと考えることにしたんだ。

 俺に何かしたとしても、必ず何かの形でそいつは後悔する。大きな力(運命か他の人の意志か)で絶対にひどいことが起こる。実際にそれはほぼ100%の確率で起こっている。そんな奴に俺の人生をストップさせられてたまるかよ。そんなことに関わっている時間を、もっと大事な人や大事なことの方に振り向けるんだ。

 

 勝つことではなく、超えていく。

 

 憎む心より、大事なものを慈しむ方にリソースを。

 

 自信をもって言える。

 俺に対して敵意を持ってくる奴は、必ず他の誰か多数から敵意を持たれている。でも最初は味方じゃなくても、何かの拍子で味方になるかもしれない。その時、敵意は消えていたりする。敵意の目で見なくなったとき、プラスではなくてもニュートラルな付き合いまでは持っていける。

 だから、なるべく最後まで「憎む」というコマンドは使わずにいよう。

 

 大人だから全く接触しないという選択肢がない場合もあるけれど、それならそれで互いに対立しない程度の付き合いで。最低限、人間の礼儀としてどんな相手でもこちらから挨拶はしておこう。それは自分の中の矜持。

 

 ということを内省して考えていたらば、「敵を作らず極力戦いたくない」自分というのが見えてきたり。裏を返せば弱気だったり相手に嫌われたくないという反面だったりするのかなぁ、なんて考えたり。

 でも、攻撃することで相手を排除する、意見を通すという剛の力のみでは限界がある。そうでなく柔の力でしなやかに生きるのが自分の「望む」方向なんだろうな、と整理したり。

 そういうのが「内省」の効用であったりするのですな。

 

 あまりオチがつかないけどこの話はこの辺で。