Think Like Talking.

趣味や子育て、ゆるい生活をつづる備忘録

Man in the Mirror

 お前は、誰だ。

・Man in the Mirror

 と言っても別にドッペル言外さんに会ったわけではない。約1年ぶりにまともに「明るい抑うつ闘病記」を書いてみようかと。

 

 復職してからまる4年が経過。完全断薬・寛解のお墨付きからも既に2年以上が経過したことになる。早いもんだよなぁ。

 去年は家を建て子供が生まれの激動の一年。抑うつ上がりでこんな生活が出来るようになるとは思ってもみなかった。

 

 ふと気づけば季節は3月。

 抑うつになった始まりの月である。

 

 震災のニュースで当時の生活をフラッシュバックさせ、そちらに引きずられるかと思ったら「そんなこともあったよなぁ」と笑い飛ばす自分がいた。そうか、自分はこんなにもあの頃から遠くに来られたのか。

 デイケアという復職訓練・内省への幾度とないダイブを経て、復職OKのお墨付きをもらって4年、10年再発率のグラフの半分の期間までもうすぐというところまで来たわけで。

 

 というわけで前置きが長くなったけども、この「明るい抑うつ闘病記」カテゴリーで長らく止まっていた抑うつとの闘病、デイケア編から少しだけ進めてみる。

 

 2011年下半期をベイルアウト(ドクターストップによる出勤停止措置)でスタートし、休職扱いとなった当時。復職のために札幌のとあるクリニックにてデイケア=復職訓練プログラムを受けることになったというところまでがはるか昔の日記(その後ちょぼちょぼ同カテゴリーで書いてるけど、直接の本編は2014年くらいで止まってたはず)。

 

 デイケアのプログラムを紹介することは出来ないためどうしたものかとしていたのだが、実際自分がその頃どう考えていたのか、また家族の視点はどうだったのかというのは書いていなかった気がする。

 

 デイケア自体はクリニックが定めているあくまで「自主的な」治療の一環である。したがって、出なけりゃ出ないで全く問題は無い。実際それによってデイケアを自主的に卒業していった方も何人かいた。

 しかしてそれは外科的治療における「とりあえず止血したけど傷の縫合はしてない」ような状態であり、傷の状態はどうなのか、縫合によって本当に塞がったのか、トレーニングで筋力をつけたのか、というプロセスをすっ飛ばすことにほかならない。精神疾患的に言い換えると「抑うつになった原因は分かっていても、対処法を身につけずにまた戻っただけ」という事になり、これが先の10年再発率という話に関わってくる。

 そうした対処法を身につけて、復職に耐えられると判定された状態で復帰する=デイケアプログラムをクリアして卒業するのと、不十分なままで(やむを得ずの場合もあるので一概に言えないが)復帰するのとでは、とんでもない再発率の差が出てくる。勿論それは再発が早いか遅いかという時期もあるが、後者の場合は下手をすると1年以内、2年以内という数字が圧倒的に多かった記憶がある。そうしてある程度の寛解状態まで療養できず投薬で何とかすることで更にその期間が伸びてしまう、もしくは効果が得られず更なる追加投薬でスパイラル...というケースがある様子。

 

 それを踏まえた上で、当時の自分。

 休養により心の体力ゲージはすっかり回復し、見た目的には何ら平常時と変わらないところまで回復していたという。だがしかし。

 守備力ゲージが下がっていた、という状態で。つまり外乱の受け止め方で以前よりも重く受け止めすぎて長考に陥ってしまう状態が発生していた。それこそがまさにリハビリが必要な、というか抑うつ状態の再発から抜け出し職場復帰するために重要な関門であり、その対処法を身につけなければ最初は元気だとしても遠からずまた出戻る可能性が高い、という訳で。

 

 通うこと4ヶ月。

 様々な患者の人達と接し、その中で擬似的な「職場」をシミュレートして自分の思考の偏りを自覚するという毎日を経て、復職許可のための検定は1回落ちて2回目で合格。クリニックの中でもかなり早期の復職を実現した。

 その検定というのがまた、普通に生活している人間でもここまでの集中力で生活(仕事)するのは無いんじゃないかという状態での訓練。それを検定期間中ずっとやらなきゃならんという。そりゃ確かに相当な身体的・精神的負荷状態だよな。それを乗り切れれば、多少のストレス状態を経験しても乗りきれるようになる、という感じ。復職後にどうしても如何ともし難くなればそれは自分のリミッターを超える部分のため、訓練でやったように自分の状態を外部に発信するなり何らかの対処が出来るようになっている、という寸法。

 

 ともかくもそうした訓練を無事に乗り切ったからこそ晴れて職場復帰への道が開けた、というわけで。

 

 その過程で、自覚しなければならない、受け入れなければならないことがあった。

 むしろ、それは気付いていたことなのかもしれない。

 

 それがタイトルの「Man in the Mirror」、すなわち鏡の中もう一人の自分という訳である。

 責任感と何らかの状況に追われてそれを投げ出せない、許せない自分。

 もう一人の自分は、その自分がしなければならない事柄に拒否反応を示している本当の自分かも知れない。すなわち、「社会的には子供と捉えられる恐れのある正直な自分の心理」そのもの。

 

 抑うつになったプロセスをざっとさらうと、状況が重なったとはいえ自分にとってストレスの溜まる環境、社会的に背負った責任に対して本当の心は「もう無理だ」と叫んでいたにも関わらず、それを押し殺して体力の続く限り立ち続けた結果だ。

 その中での「もう無理」という事柄は、例えば「この仕事はしたくない」「辛い」という逃避願望。どうして「無理」と思うかの原因を探れば「今まで良くしてくれた人たちに不利な条件を出したくない」「自分が助かるかも知れないが他の人を犠牲にしたくない」「そうしなければ仕事にならない」「だからこの仕事をしたくない」という論法にたどり着く。よく、「生真面目な人が鬱になる」というが、恐らく大半の人たちがこうした状況と自分の本心との板挟みになるからじゃないかと痛切に思う。いい子になりたいのではない、人の痛みがわかりすぎるからこそ、その痛みを与えてしまう事に敏感であったり、それ以上の苦痛になって自分に返ってくると知っているのだ。

 

 ともかくも、そうした「もう一人の自分」を、「それじゃ仕事にならないよ」「大人なんだから折り合いをつけなきゃならない」と押し込めることをやめることにした。

 

「その優しさが状況に合わなかっただけ」

「全てを否定されたわけではない」

「その心をなくさないことで、良くなる世界がそれ以上にある」

 

 小難しい話にしたら「自己肯定感」とでもなるのだろうか。

 ミッションの遂行が至上とされる世の中になってきたからこそ、それを出来なければ価値がないと思いがちだったり、そう評価される風潮がある。でも、それは本当に「人間がするべきこと」なんだろうか。

 

 自分が「仕事人間」だとは思っていなかったが、この抑うつになった期間を振り返ると、意外なほどの愛社精神とでも言おうか、そんなものが存在して、自分を縛っていたんだなとつくづく思う。どちらかと言えば勤務時間以外は会社の空気など1秒も吸っていたくはないし、自分を捧げる気など無い。それでも心の何処かで責任感が深いところまで根ざしていたというわけだ。

 このカテゴリの結構前の日記で、「自分がこうなったのは『会社のせい』だ、と思えればしめたもの」というニュアンスの文を書いたが、別に会社を恨めということではない。自分の力が足りなかったとか、心が弱かったと思う方向に囚われるべきではない、という意味だ。

 ドライに「一労働単位である以上、代えの利くユニットでしか無い」事を受け入れ、ならばそのユニットの出来る範囲の事をやればいいと念頭に置くようにする。そうすることで、いつかまた「抑うつになりそうだ」と心によぎった時、無理に留まろうとするのではなく「回復するまで別のユニットに頑張ってもらいまヒョ」と軽く捉えることができるのだ。無論、人生の中では勝負しなければならない、どうしても踏ん張らなければならない時期もある。でも、そんなに人生勝負どころってあるかい?

 

 4年前、デイケア卒業後リハビリ勤務からしばらく。疲れた顔が鏡の中に居た。

 4年経ち、鏡の中の顔は少しだけ疲れているものの、日々を楽しむことでどこか明るさが戻っている。勿論泣きそうな笑顔の日だってある。それでも、「鏡の中の男」はいつかのような全くの別人ではなく、多分殆ど自分と一致しているのではないか。

 

 鼻毛の中に白髪混じってきたな。ちょっと目尻にシワができたか?

 それでも、いい笑顔ができてるじゃん。

 

 抑うつもそれを超えることも、病気である自分や今できることを受け入れることで先に進める。よくある話だけど、「もう一人の自分を受け入れる」ことが、実は最も難しいけれど最も必要なことなんだと思う。

 

 というわけで、今宵はこれまで。