Think Like Talking.

趣味や子育て、ゆるい生活をつづる備忘録

O.NO.RE

 久々にガチンコの「明るい抑うつ闘病記」を書こうと思うの。今悩んでいるある人へ向けて。

 

・O.NO.RE

 タイトルの「O.NO.RE」はコノウラミハラサデオクベキカではなく、稲葉浩志さんのソロ曲から。「志庵」というアルバムに入っております。自分の中で色々と迷ったり自分の意味を見失った時に聞く曲の一つで。歌詞をダイレクトで載せるのはルール違反だと思う(思うだけでその内載せてしまうかも)ので、そこはそれ各々で公式の歌詞検索サービスを覗いてもらってまぁこういう曲。


稲葉浩志 / O.NO.RE - YouTube

 

 抑うつ状態になった頃。

 少しの回復期に入りある程度正常な判断力が戻ってくると、社会からベイルアウトして治療に専念する休職中とは言え「こんなことでいいのだろうか」という思念に囚われ始める。本編でデイケアに通い始めた2011年8月末、休職から概ね1ヶ月半過ぎた頃、普通の会社員が仕事に向かう時間に札幌駅前へ同じ波の中で向かうと特にそう思った。夏の暑いさなか、みんなは仕事している。自分は会社からの休職手当が後2ヶ月で切れる。こんなことでいいのか。早く復帰しなければ、自分の社会の中での意味が失われてしまう。などなど。

 

 抑うつ・うつは真面目な人間ほどなりやすいという傾向。

 まさにここに集約されている。治療のことよりも、周囲の事や治療後=「戦後」のことを考えてしまい、結果として治療が長引いてしまう。もしくは不完全な治療のまま「もう行けます!!!」と飛び出してしまい、あっという間にやられて再休職。このパターンが主治医いわくものすごく多いとのこと。そして真面目だからこそ、2回目以降の休職は1回目と比較にならないほどダメージが大きくなると。

 だから、休んでいる期間を無駄にしたくないのなら、治療に専念すること。今までの人生で大半の人ができない、「己を知る」ということを、これほど深くできる期間は無いのだと。その意味がデイケアという空間の中ではものすごくよく分かる。

 

 自分の病気をある程度初期に認識して、ではどうしたら良いか把握し、治療のためのプログラムを深読みしすぎず本来の狙いを察した上で活用する者。

 他の人は、「そのプログラムをどうこなせば早く復職検定にパスできるか」という「治療ではなく脱出」の視点で見てしまい、治療効果を無くしてしまう者。

 病気になった原因・自己の内面を追求していく「内省」のプロセスで、重い扉を開かずそこを回避して何とかできないかと本質から目をそむけてしまう者。

 学生が学校で学ぶことではなく、大人が自主的思考を持って課題に取り組むという姿を見ることができる。ただし仕事のような明確な目的=成果を上げる為のミッションではなく、全てがあくまでも自分の行動原理や傾向を浮き上がらせ、それが自分の病気にどうつながっていたか・どう対処するのがベターかを訓練するための場。

 

 今休職している人へ。

 このカテゴリのエントリーで繰り返し発信してきた「まず休む」という第一義の次は、「自分を掘り下げるプロセス」が必要だと思う。「何かをしようという意欲」を持つのは素晴らしいけど、例えばそれは骨折をした人が治りきらないのに運動をしようというのに似ている。入院していたら、患部を保護して検査してまず治すことを考えるでしょう? 心療系の疾患はなまじ身体がある程度動いてしまうから、「行動」できてしまうからそっちに向かってしまう。焦っちゃダメよ。

 

 自分は内省の段階で、殴り書きのレベルだがそこそこの量の文章を書いた。子供の頃からどんな子供だったか、何が好きで何が嫌いか、何を目標にして何を否定するか、仕事する時のポリシーや趣味に向かうスタンスや、トラウマになっているであろう子供の頃のいじめや疎外感などなど。

 幸運にも自分は壮絶な体験というのはほとんどなく、いじめもそれこそ現代のような陰湿なものでなく30年前の子供のレベルだった。ただそこから「人とつるむのが極端に苦手」というスタンスは確定されてしまったけど。

 田舎の街ではある程度「できる」側に見られて都会の街に送り込まれて「できない」側のレッテルを貼られる中途半端な立ち位置。順位を付ける「競い合い」が嫌いなのはここから来ているのか。

 趣味であるとかはそつなくこなせるけど、それを一つ極めようという気にはならず秀でている人のレベルには達しない。器用貧乏そのまま。

 

 などなど、自分のキャラクターを再定義することで、自分の行動(選択)が無意識にどう働いていたのか、もしくはどうありたいのだろうかを本音で吐き出すことで、どこを変えるべきか、もしくは本当にそうなりたいのかを見つめる。

 

 このプロセス、普通に生きていたらなかなかできない事。「自分はこうだから」で大体は終わってしまうのだ。こうだから変える必要はない、こうだけど今更変えられないなど。ビジネス啓発本などでは「こう考えてこう変えましょう!!!」と瞳孔の開いたような文章で喧伝しているけど、それができたらみんなエリートだ。

 

 ただ普通に、病気になる前の健康な暮らしがしたい。また病気にならないような自分になりたい。恐らくただそれだけのはずだ。

 なってしまったことは既に仕方がない。どう治すか、治した後どう生きるか。自分はここで「明るい抑うつ闘病記」と書いている通り、職場などでも「本当にうつになったの?」と驚かれる。ある意味で、それは自分にできる一つの生き方だと思っている。

 抑うつ・うつになった、と言うのは普通の人にとっては「奇行とか自殺未遂とかするんじゃないの」という、未知の恐怖がつきまとうものだと思う。しかし抑うつや軽度のうつから回復した人たちは分かると思うけど、悩みが少し深くてどうしても波が来る以外は、ほぼ以前同様の元気を取り戻せる。そして風邪と同じように、本来誰でもなりうる病気であると。

 

 だからここでは、自分の持論も毒も、楽しいことも辛いことも、なるべく無調整で出したい。こんなことを考えるものなんだと知って、救われる人もいれば私はもっと辛いから参考にならないという人もいるだろう。それでも、何かを考える手がかりを掴んでもらえればいい。

 

 休職して休んでいる方。どうなるかわからない先のことを思い悩むより、回復後にそこを生きていく自分について、もっと深く知ることから始めて見てください。その中で、子供の頃からしたかったことを思い出したり、やってみたかったけど無理だと思っていたことを書き出してみて、ダメでもいいからそれに近いことをやってみるとか。楽しいことは多い方がいい。今立ち止まっていても歩き出した時、楽しいことが一つだけだったらその一つが思うように行かなかったら、絶望的な気持ちになってしまうから。わかるかな?

 

 己を知れ。力を抜け。やりたきゃやりゃええんじゃ。