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趣味や子育て、ゆるい生活をつづる備忘録

No Pain,No Gain

 明るい抑うつ闘病記、今回のテーマは「頑張る」。

・No Pain,No Gain

 タイトルはChage & ASKAより。

 久々にはてなのトップページから新着記事の一覧やらを見ていて、「努力する」という考え方についての記事(ブログ)を目にした。ざっくり言うと「努力が全て報われるという社会は嫌だ」みたいな記事だったんだけど、まぁそれは人の考え方だよねということで少し横に置いておこう。

 

 さて、「頑張る」のお話。

 結論から言うと、意識的に「頑張る」というのをやる必要は無いんじゃないかと思う今日この頃。

 

 抑うつの発症原因として、自分の限界値を超えて(気付かずに)頑張ってしまい、消耗に気づかずエネルギーが枯渇してしまうという側面がある。そのため、デイケアでも結構な割合で(自分の通っていたところでは)「頑張らない練習」というのをすることになる。や、「頑張らない」のは何もスチャラカ社員になれということではない。無意識的に自分でしていることが、他人にとっては余りに無理をしているようなレベルの行動であったりする、それを抑制するということ。言い換えれば、自分のレッドゾーンを知り、常時その領域に入らないようにリミッターをかける練習ということか。

 

 無論、常にリミッターをかけることでそこが限界値として臆病になるのではなく、必要な時にその領域を使うということ。力加減を知らない人が、加減を知るというのがわかりやすい。

 仕事にしたって、「こんなものじゃ認めてもらえない」とか「まだまだこれじゃ足りない」という感じで、自分をどんどん追い詰めていく人がいるじゃないですか。でも大体、そういう時ってのはやれる範囲をすでに超えていて、効率もパフォーマンスも低下し始めている(もしくは低下しているから思い通りの結果にならない)。そんな時は、自分のしている作業(抱えている仕事量)など書きだすなりして客観視してみて、それに費やしている自分の時間・リソースと相談してどこまでやるかを見なおしてみる必要がある。これ、意外にできてない。

 スケジュールが空いていることに恐怖すら感じる人もいるし、それくらいの事をこなせなければ、という考えの人もいる。

 ただ、この前の日記でも一部書いたと思うが、それは「出来る人」と「出来ない人」がいる。ビジネス書や自己啓発本で「デキる人の仕事術」みたいな特集は絶えることなくリリースされていると思うが、それは一つのメソッドであり、万人がその通り実践できるかというとそうでもない。困ったことに、鬱を発症するような人はそうした自己啓発スキルアップが大好きで真面目な人が多いため、それが出来なければ自分は「出来ない、ダメな人間」と勝手に結論付けて悪い方へスパイラル、と。

 

 でもそもそも、それを知らなくても人間はちゃんと生きている。

 社会という枠組みの中で、少しでも豊かな待遇を求めるなら評価されることが必要となり、そのために「頑張る」という行為・考えが出てくるのだ。

 

 しかし、自分が抑うつになったり、体調を崩すことが多くなる歳になった(ギックリ腰やアレルギー性の蕁麻疹など)とき、しみじみと思う。

 

 「生きる」ということ、すなわち人間が生命活動を行う事自体、意識の外側で生物としての自分の身体は「頑張り続けている」のだと。身体(や心)に異変をきたしても、正常な状態に戻ろうと常にフル回転で動いている。

 

 少し話をずらすと、自分は自分が死ぬ夢を見ることがある。街中で映画のように拳銃で撃たれる夢の時は、銃弾が当たる身体の衝撃で「ドン」と身体が跳ねた。自分の命の締め切りが告知された夢では、カウントダウンで意識が「落ちていく」過程と身体の感覚が「閉じていく」。当然夢の中なので現実に死んでは居ないのだが、目覚めた時に自分の身体があり動いていることに、言い知れぬ感覚に襲われる。

 

 ああ、生きている。

 

 よく、鬱の人に対して「頑張れ」と言ってはいけないと世間一般で言われている。外からは分からないが、起き上がるということだけでも様々な葛藤やエネルギーの燃焼が必要になってくる。要は、生き続けるだけでも「頑張っている」状態なのだ。難しいのは、そうした気遣いが却ってその人に負担になってしまう可能性がある。なので、抑うつ・鬱の人もそうした自分の状態を把握することも必要だし、周りの人(抑うつの人が近くに居るかもしれないと想定して)も「そういう病気」であることを知った上で、負担にならない程度の「普通の接し方」をするのがいいのかもしれない。

 

 さて、抑うつ・鬱から脱した後の「頑張る」ということに対して。

 元々自分は向上心のような物が希薄で、今までの人生でも「頑張った」記憶がない。努力を馬鹿にするわけでもないし、そうした努力が報われるならそれに越したことは無いと思っているのだが、自分の中で何が「努力」なのかがわからない。それが例えば「苦労」というものに近似するのであれば、そうした「苦労」も自分の中ではほとんど存在しない。

 それをデイケアで他の人に話したところ、なかなかに示唆に富んだ答えとなって返ってきた。それは、

 

「苦労を苦しいと思わず、努力することを大変と思わない、自然なこととして受け入れているのではないか」というものだった。なるほど、とストンと落ちた。

 

 親からすると、あんたは苦しい人生送ってきてるという話をされる時があるが、なにやら子供の頃からいろんな病気をして手術やら入院やらをして、また家もそこそこ貧乏でという話なのだが、自分の中では全くそんなものは取るに足りないもの。難病の人に比べれば傷も大きくないし現在も比較的健康でいられる。貧乏にしたって、借金取りが来るわけでもないし屋根のあるところで寝られる。飯も飢えない程度に食える。暖房を点けられなかった冬はさすがに厳しかったけど、それは3歳位の話で親のほうが大変だった。大人になってからの仕事や抑うつだって、乗り越えてしまえば話のネタにしてしまっているし、実際自分はこんなにも早く寛解を迎えられたのだ。

 

 そういう解釈だからこそ、苦労を苦労と思っていない。乗り越えるための努力ではなく、そのための最適解と自分で思ったことを自然にやっているだけなのだ。

 だから今以上に何かを努力しろ、と言われても多分戸惑うだろうし、その目的が自分にとって納得がいかない(必要ない)と判断すれば多分やらない。今の自分にとって大事なもののために自分のリソースを費やすのが、今までの自分の生き方だったからだ。ただその「大事なもの」がずっと同じだったわけではない、時代によって変わってきたからこそ、人から見たら「変わった」と思われるだけで。

 昔は自分の趣味や進路だった。少し前は仕事だった。今は、家族やその暮らしを守らなければと思えるようになった。そのための手段として必要なことに向きあうだけ。ただその過程で、自分が自分に恥じることの無い、後悔の少なめな方を選ぶようにしている。

 人間の心理として、何を選んでも結局は後悔する、別のルートを通った時の事を考えてしまうものらしいが、これについてはさすがに若い頃に自分の立ち位置を確定出来ていた。これが大きい。その立ち位置とは、

 

「今の自分のいる場所は、いつかの自分が選択した結果だから否定しない」

 

 ということ。自分がいいと思って選んだ物だから、その時の自分の最適解を選んだ=後悔しない方を選んだと。生き方にしても、何かを選ぶにしても。他人と比べて云々というのも、人間だから全くないとは言い切れないけども、自分が選ぶものとその基準がきっちりしているからこそ、後悔は少なめ。羨むことはあまりない。逆に羨ましがられることの方が多かったりするが、そういう人に限って自分の持っているものの素晴らしさに気づいていないのだが。

 

 頑張る、ということに話を戻すと、長期的な目的のために計画を立てて云々、と言うのはものすごく苦手。エンドレスに近い頑張りなど、人間に出来るわけがないとさえ思う。それを強いる経営の神様みたいな人などもいらっしゃるが、それは成功者としての一握りの意見であり、人類全部がそんなことをできればそりゃあ気味の悪い世界になるよなと。

 ただ、頑張って一番になることが全てではない。例えば何かをできるようになるため、知るためという意識が芽生えたなら、それは一番にはなれなくても必ず一定までは人間できるようになるだろう、とは強く思う。そりゃまあエクストリームなあれやこれやは限界があるけど、例えば「パソコンに強くなりたい」とか「楽器を始めたい」というようなものであれば、ひと通りのことは必ず出来るようになると。

 やるからには一番、それ以外は意味が無いというような風潮があるから「頑張る」「努力する」というのが大事になってしまうが、自分はそんなものはやりたい奴がやりゃいいんだから他の人に強いるなよ、という考えなので大嫌い。生きて、何かをするということだけで実はものすごいことなんだと。

 

 その上で、自分の力を高めてその目標を見据えている人はすごいと思う。でも、自分ができているから、それをしない他の人はダメだというような考えは嫌い。

 自分の目の前の道をひたすら進む。多分人の生きている世界ってのは、そういうもんなんだと思う。その途中で誰かと雑談するもよし、意気投合したら一緒に歩くもよし、たまには休めばいいし道が違えば笑って別れればいい。全力ダッシュするもいいしムーンウォークのように後ろ向きに前進するのもいい。

 で、いつか振り返った時に、自分が納得できていればそれが「頑張ってきた」ということなんじゃないかな。

 

 生きて入れば、それだけで沢山の痛みがある。全くなにも得ていないことなど無い。時には自分の心臓に手を当てて、自分の身体に「頑張ってくれてありがとう」と言ってみるのもいいんじゃないか。気恥ずかしけりゃトイレの中ででも(笑)。

 

 というとっちらかった状態で今宵はこれまで。