千年紀末に降る雪は
「千年紀末に降る雪は」を聴いて20年前の昔話。
タイトルは前回に引き続きキリンジ。千年紀末からもう20年近く経つんだよな。
20年前か。98年。何やってたかな。そうだ、大学4年だった。就活でえらい目に遭ってた頃だ。まだテレビはアナログで4:3比率で。水曜どうでしょうがまだメジャーになりきる前の。
最近とみに90年代に記憶が引き戻される時がある。学生時代を懐かしむ? いやいやそれはあるけどそこまで今を嘆いちゃいない。一体何なんだろうな。
千年紀なんて珍しい区切りをまたいだ世代。21世紀は素晴らしいことが待っている、なんて夢を見ながら育った世代。実際に超えてみたら、同じような日々が続いているわけで。そりゃドラスティックに物事が変わるわけもなく、そんなのは革命みたいな痛みを伴うものじゃないか。
思い出してきた。
変化を続けていく、挑戦をしなければ意味がない、世界と競争、世界に通用するような、などなどなど。
今日の仕事でまぁ、偉い人の訓示というかその中で少し違和感が残った。
うん、企業・経済活動の中でそれは必要だろうし、21世紀のご時世に変わりゆく様々な変化に対応しなきゃならないのはこれから必然だろうし避けられないことなんだろう。
でも、それはあくまで「経済優先」の世界の中であって、それは本当に「生物としての人間」が「生命活動を維持していくうえで」絶対にしなければならないことなんだろうか。他者より強く、他者より先へ、他者より上へ。そのために必要なことではあるだろうけど、AIだ自動○○だのの台頭で人の手が入らなくても云々の世界はくるだろうけど、でも、だけど。
じゃあ、人って何のために生きるのか。
そんな根源的なことに行きついてしまうんじゃないだろうか。
どうしても誰かを上回って競争して、もがき続けなきゃ生きられない? そのために地球の資源食いつぶして? 経済活動のために? それが正当化されるから?
常々「世界に通用する」という言葉に違和感があるんだ。そりゃ企業体としてはそうしなきゃどんどん飲み込まれていくんだろう。でも、そうしてモノポライズした先って何?
近くの路地にある家が建て替わった、しばらく行ってなかった店が無くなってた、ちょっと会わなかった友達が結婚してた。そんな近いことですら知りえない人間が?
そんなに世界につながっていなきゃダメなのかな。身の回りのこと一つ満足に知り尽くすことすらできないのに。
ただ季節が春になっていくのを楽しいと感じて、空が晴れてたらどこかに行きたいと思って、嫁が新しい服を着たらかわいいと伝えて、子供が抱きついてきたら頬ずりして、親が元気に遊びに行ったら「しょうがねえな」と苦笑いしながら送り出して。そういう最低限の感性すら置き去りにしなきゃ、自分の大半の時間を仕事に費やせない。拘束時間が会社にいないだけで、精神は前よりずっと会社に囚われた、これが「働き方改革」かい。
なんてなことを「違和感」の正体じゃないかと考えてみたり。
20年前の春に、冬に、俺は何を考えてたかな。
就職する前年。漠然と「働く」ということを考えてただけで。きっと自由な時間が続かないと知っていながら、でもその時間は今も原体験のように残っていて。
千年紀末に降る雪は、どんなだったかな。
夜中に日記書こうとするとよろしくないね。今宵はまとまりなくこれまで。