逆襲のシャア公開30周年で雑記。
タイトルはさだまさしさんから。
ガノタの方々にとっては常識的なこととして、今年は「逆襲のシャア」公開から30周年。「00」10周年とかも今年だったか去年だったかそれはいいとして、気になる記事を見たってことで一つ。
「『逆襲のシャア』って結局どういう終わり方なの?」という。
いろいろ賛否両論起こっているようで、30年たった今だにそういう話題が持ち上がるというのはある意味記憶に残るということでいいんじゃないかと。
ぶっちゃけて言うと、一年戦争(初代のガンダムね)からグリプス戦役(俗にいうZの時代)を経たアムロとシャアの決着なんだけど、いろいろと言われようがひどい。「作を追うごとにシャアがかっこ悪くなる」だの、「個人のエゴのために戦争を起こして最後はアムロにボッコボコ」だの「結局生死不明であやふやに終わった」だの。ある意味もっともらしいのは「アムロとシャアの話の続編をずっと要求された富野御大がキレて今後の作品に出ないように公式でぶっ潰した」説。やりかねないけど、それは商業的な意味なので「結末」の解釈としてはちょっと横に置いておいて。
見た人は分かるんだろうけど、確かにシャアがアムロと決着をつけるために水面下で軍を作って(ネオジオンですな)、アムロを引っ張り出すために小惑星・アクシズを地球に落とす作戦を実行。一騎打ちで勝利したアムロがアクシズをガンダムで押し返そうとして、敵味方を超えて人がつながっていく...というようなざっくりした流れ。
解釈は人それぞれでいいと思うが、変に小難しく考えなくてもいいんじゃないかなぁ...。真正面から捉えれば、初代・Zを経て人類に絶望したシャアがアムロと決着をつけようとして、ニュータイプの感応を知って人類の可能性を捨てないアムロがそれを止めようとする。本当に人類≒地球の滅亡を目の前にした一般兵が、連邦もネオジオンも超えて落下するアクシズに取り付き、極限状態で見せた心のつながりであるとか。そりゃあ、サイコフレームというトンデモ設定がどうのという話もあれど、それを言い出したらSFって基本的にトンデモ設定がないと成立しないからね、現代の科学レベルでいうと。
でもそれを媒介にしたとしても、アムロとシャアが宇宙世紀の「史実」から退場したことと「人の意志の力」が具現化して隕石すら軌道を変えさせたというエンターテイメントはそこでいいじゃないかと。なんかテーマがどうのだの解釈がどうのだの七面倒くさいこといってんじゃねえ。
そんなだから、個人的な話で申し訳ないが、一つ自分で気づいたことがある。
「νガンダムが好きと言えない」。
そう、主人公機であるνガンダム、そしてライバル機であるサザビーも、好きなんですよ。でも、素直にこの2機が好きと言えない。何だろう、このブレーキ。歳を取るにつれて量産機の武骨さが好きだの、ちょっとマニアックな機体が好きだの理由をつけて、王道直球主人公機の外連味が好きだと言えなくなっていく感じ。
かっこいいじゃないか、主人公。ガンガンあり得ない動きで一般機を圧倒していくからこそ物語が成立するじゃないか。好きって言いなよ。あごクイするぞこんにゃろう。
というわけで、齢42にしてようやく、30年の刻を超えて言おう。
「ガンダム大好き!!! 主人公機が好きで何が悪い!!!」
...でもさすがにちょっと照れが入るな、文字で見ると。
それはそれで、やっぱりあれこれフル装備のゴテゴテした状態が好きになれんのはもう個人的な好みってことでいいよね。オチなし!!!