もう25年も前の歌ですが。
・魂の願い
徳永英明さんの曲で。
最近、自殺したアイドルグループの子をめぐってのコメントであれやこれやが発生しているそうな。ダウンタウンの松本さんのコメントが何やら物議を醸していたり。そのバラエティ番組のOAを見ていないから詳しいことは言えないけど、要旨としては
「自殺した子に対してかばうという風潮ではなく、自殺自体を思い留まらせる方向にもっていけないか」ということだと読めるのだが。
簡単に人の痛みがわかるなんて言ってはいけないと、40何年生きてきて分かった。その人にはその人の痛みと感じ方とがあって、ある人にとっては「大したことじゃないじゃん」と思うことでも、ある人にとっては身動きが取れなくなるほどの悩みとなって押し寄せる。自分が抑うつになったからこそ、その状態になったときの恐ろしさは少しだけ分かった。
それでも、解決するのは容易じゃない。結局その状況から「遠く離れて」しまわなければ、もしくはその問題自体が「消滅」しないことにはまず先に進めない。自殺してしまうというのはその解決策を外部要因で何とかせずに、自分で世界から「退場」することに求めてしまうことに他ならない。
松本さんやその意見に賛同する人たちの意見として、きっと「死ぬ」という選択肢はずっとずっと深いところに置いておいて、その手前の段階で何とかできるというのを周りが提示してやらなきゃならない、ということなんじゃないかと思う。ただ「死んでしまってかわいそう」で済ませちゃダメなんだと。
うちの身内でも、もう10年以上前になるだろうか、自分で命を絶った人がいる。俺も小さいころかわいがってもらった優しい人だ。単身赴任が続いて、家族に会いたい、一緒にいたいという中で亡くなったと聞いた。それでも仕事から離れたらダメだと、見えない何かで囚われたかのように。
もし誰かが、「放り出して一回帰っておいで」「そこの仕事がすべてじゃないよ」「別の仕事したっていいじゃん、自分のいたいところにいれば」と一言でも言ってやれれば、今も優しい旦那さんとして定年間近だったのかもしれない。周りの人たちも、みんなそれを悔やんでいた。
今ある状況なんて、簡単に飛び越えられるものなんじゃないかといつも思う。嫌ならはぐれメタルのようにさっさと逃げちゃえばいいんだ。逃げるのが負けだなんて、それは勝ち組負け組なんて枠を当てはめようとする奴らのルールに過ぎない。息を一回するごとに、鼓動が一回なるごとに、人間なんて寿命をすり減らしてるんだ。迷惑かけない程度に、ささやかに穏やかに人生過ごしたって、誰かに文句言われる筋合いはねえ。
タイトルの「魂の願い」という歌は、終盤に「頑張れ」という言葉が16回も連呼される。今なら「鬱の人とかに聞かせたら云々」とかいううるさい風潮なのかもしれないけど、自分はつらいときずいぶん救われた。
精一杯頑張ってる人に、さらに一層の「頑張れ」じゃない。立ち向かう方向への「頑張れ」でなくていい。逃げ道を探す「頑張れ」でもいいはずだ。どこにいたって、どこに行ったっていいんだから。どうせ人間なんて、打ち所が悪いだけでもあっけなく死ぬときゃ死ぬ。急いで自分で終わらせなくてもいい。
そう言いたいんじゃないかと思う。特に松本さんは子供が生まれてから余計にそう思うのかもしれない。
俺も自分の子供が生まれてから、更にそう思うようになった。立派じゃなくても、離れたとしても、どこかで生きていてくれればそれでいい。
だからこそ「死んだら負け」という表現をするのは、そんなにいけないことだろうかと思う、この騒ぎの話。