Think Like Talking.

趣味や子育て、ゆるい生活をつづる備忘録

悪玉

 亡くなってしまった女子プロレスラーの方に哀悼の意を。

 

 虚構と現実の区別をつけられない、リアルの世界で感じる痛みを実感できない、誰かに向けた悪意はそれ以上となって戻ってくることに気づかない。

 

 プロレスのシステムは今いちわからんけど、マッチポンプというやつか、因縁だの難癖だので対戦を組む、しかしそこには確実に「筋書」があるはずで。普通に生活していたらそうした「抗争」などあるはずもないし、プロレスという興行の範囲の中での「物語」であるとわかる。そこに乗っかり「物語」に感情移入して応援したり敵対勢力に罵声を浴びせるが、誰もがそれは「虚構」であると知っている。そのうえで成り立つものだし、興味がなければ接することもない。エンタテインメントはすべて大なり小なりそういうものだと思っている。

 

 さてそんな自分、プロレスは苦手だ。

 自分は子供の頃、人一倍体が小さくてよくプロレスの技をかけられていた。ガタイのいい同級生にはパロスペシャルだのスリーパーホールドだので痛めつけられ、フォールされようものなら跳ね返すことは無理。必然的に打撃技で返すようになり、急所を狙うフルコンタクトで一撃必殺。そこは小学生の力で遊びの範疇だ。相手が「痛い」といえば当然「ゴメン!!!」で慰め仲直り。互いの物理的な痛みを知っていたから。 

 

 だけど、そのプロレスを見せるレスラーの人たちがすごいというのは知っている。

 

 技をかけてかけられて、ケガをしない・させない。そのためにすさまじいトレーニングを積んでいる。ヒールとベビーフェイスの「配役」があって、それぞれが「演者」であり「競技者」でもあると。憎々しい振る舞いもあくまで「演技」であり、リングを降りファンから離れたプライベートではおそらく「普通の人」だ。

 

 エンタテインメントは、誰もが秘密を口に出さず、「虚構」だとわかったうえで楽しむものではなかったか。

 

 富士額のネズミの中には時給で働く誰かが入っているけど、その「夢の国」に年間パスポートで入りびたる人たちは「そういう生き物だ」と含み笑いをして楽しむ。 

 教育に悪いと敬遠されたコントの神様たちは、時が過ぎてその笑いがいかに緻密に作られていたかを周囲の証言で知らしめ、失われたその技術はもう取り戻すことができない。

 

「虚構」と「現実」の区別ができず、手前勝手な正義で自慰を続けた結果、虚構を楽しむ手段をことごとく殺し続けたのだ。

 

 そして今度は、手前勝手な自慰行為で本当に人を殺してしまった。

 自分はやっていない、そんなつもりはなかった、ではない。悪意を向けたすべての人間が等しく「殺人者」だ。

 直接の原因はこれからの捜査による。だけどどこぞのテレビ番組出演で受けたバッシングが大きな要因であると想像せざるを得ない。そしてそのテレビ番組こそ「虚構」であり、それを差し引いて見るべきであり、「台本の有無」など今更論じて何になる。

 

 現に彼女はいなくなってしまったのだ。

 

 自分は亡くなった方と面識はない。そして世間一般バッシングを受ける「有名人」の人とも当然直接の面識はない。どんな人となりかもわかるわけがない。だからこそ、たとえその人がSNSをやっていようとも、悪意を向けることはない。直接面識がない以上、自分が知るその人のイメージはあくまで「テレビやメディアに切り取られ編集され加工された」イメージでしかない。本当に直接その相手と関わり受けた印象こそが「現実」であり、しかしそれは「自分が感じた印象」でしかない。

 

 そう、あくまで「主観」なのだ。

 その「主観」が絶対的な正義だなどと誰が言いきれるか。

 

「人を撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」

 

 自分のこのブログですら、単なる自慰行為に過ぎない。だけど、息子や自分の関わる人たちに呼びかけることはできる。自分が悪意の連鎖の始まりにならぬよう。その「善意」による行動は誰かを救うためのものか、自己満足を満たすだけの「悪意」に変質していないかを問おう。

 

 そしてその先に、確実に心を持った「人間」が存在することを伝えよう。

 

 心に「花」を。

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