好きなものを好きという、大人になっても難しい話。
出勤途中のラジオで気になった曲をradiko のタイムフリーで検索。YOASOBIの「群青」。アルフォートのCM曲だそうで。この歳になると非常に刺さる歌詞。
好きなものを好きという、簡単そうで難しいこと。どうもこういう「好きを貫くには」みたいな歌、それは「好きなものを邪魔されず自分の好きなように続けて」行くまではわかるけど、その先にある「誰かに認められたい」という承認欲求につながっていくのだろうかと考え始めると立ち止まってしまう。
好きなものを生活の糧にするのであれば、それは必ずこうした壁に当たるのだろう。でもそうでなく、本当に趣味で楽しむための「好き」であれば、こんなに身を捩るような苦痛を伴うことは少ないんじゃないだろうか。少なくとも、そんな苦痛を望むのであればそれは「好きなもの」と言えるか疑問だし、それを好むのであればむしろMか。
いや、そうじゃなく。言いたいことはそうじゃない。
趣味であったり心の平安のために行う「好きなもの」が、自らを苦痛に陥れる行為になってはならないが、今の「認められなければ意味がない」とか「極めなければ」という風潮が好きになれんという話。
自分に刺さるのは、好きなものはたくさんあれど、極めるという方向に向かないのだ。プラモは未だに素組み派、車は別に走り屋になったわけじゃない、ヴィオラも誰にも師事しない独学で音楽に忠誠を誓ったわけでもない。自転車もガチロード礼賛の風潮に嫌気がさし、パソコンだってスペック追求よりも自分の必要な仕様を手に入れればそれでいい。
何一つ「これは譲れない」「これだけは誰にも負けない」というものがない。
それを誰に責められるわけでもないのだが、...あ、昔の自分に責められる気がするのだろうか。何者にもなりきれない中年の自分が。それが、こうした歌を聞いて「刺さる」のかもしれないなあと分析してみたのだが...。
あ、もしかしたらこっちかな。
この歌の中には、好きなことに対して「怖い」という表現が出てくる。好きということ、続けること、向き合うこと。何からくる「怖い」なのかはわからない。でももしかしたら、他者からの評価に対する過敏さ、生きづらさの事かもしれない。理解されにくいマイノリティな趣味だったりするとなおさらそうか。もしかして、自分が刺さっているのは「こっち」で、今のように自分の趣味の領域が多様に許される環境が少年期からあったならもっと違った世界線があったのかもしれない、と。
今子育てをしながら、息子の行く末を考えるときが多い。この子の「好き」はなんだろう。それを、せめて親・家族である自分たちくらいはその「好き」が彼の中で大事なものとして育てて行って、いつか自分で何者かになれる応援をしてやりたい。時代の環境も、多様なジャンルが乱立・細分化はしているけど、大半は「これもあり」として一定は受け入れてもらえる世界のはずだ。
だから、自由な発想をなるべく見守る。冒頭のロボットコンチェルトの画像は、息子が盛ったもの。もともとの武器ですらなく、色のついた台座パーツを組み合わせてフルバーストみたいに作ってしまった。柔軟性のなくなりかけた大人の俺には、それを武器として持たせるという発想すらたどり着かない。きっとそういうことだと思う。
YOASOBI「群青」Official Music Video
【公式】ブルボン アルフォート×YOASOBI Special Movie 『群青』 inspired by ブルーピリオド