刻まない時間
「明るい抑うつ闘病記」その2。
自転車との再会について書いたのが前回まで。今回は少し詳しく抑うつへの転落と抑うつ症状でなにが起こったかを。
異動初日の2011年3月1日。新しい職場への初出社。
そこで待っていたのは、16畳ほどの事務所空間に4人分の机、コピー機、規定書類や営業関連の資料が入った棚。一癖も二癖もありそうな部門長・上長・そして新人。通りに面したビルの1階にあるその部屋の大きな壁面ガラスは完全にブラインドを閉められ、館内BGMなどは無縁・無音。時計だけが時間を示し、外の日差しや周囲の音から隔絶された部屋で、ひたすら無言で翌年度の営業目標や、取引先との価格交渉資料を作成する。
「わからないことは聞いて」という部門長。そりゃあ、わからないことがわからないですとは聞くわけに行かず、なんとか目の前にある前任者のPCから資料を引き出し目を通す。
朝9時前の始業から一応の定時である18時まで、ひたすら無音。
何をするにしてもPCのIDすら届いておらず、これ以上は何もできないため、初日はそこで終了。
帰宅のために列車に乗り、任期についてや今後の仕事について考えた時、言いようのない不安感に押しつぶされた。iPhoneでSNSを見ながら、いつもと変わらない日常に何とか自分の心を戻そうとしてもうまくいかない。家に帰る道はまだ雪が深く残り、久々の革靴では足を取られなかなか進まない。アパートの灯りが田舎の静かな住宅街で消え入りそうに輝いている。嫁がいるんだ、なんとか持ちこたえなければいけない。
そんな初日の夜。嫁との会話で、自分に言い聞かせるように「大丈夫」を繰り返す。
翌日。同じ方向の列車で通勤している嫁と時間を合わせ、初めて二人で通勤列車に乗る。時間は朝7時過ぎ、通学の高校生や通勤する社会人で満員になる便だ。その日嫁は午後から本州に出張の為、夜は俺一人。普段なら食事も軽く済ませて好きな時間まで趣味を、なんて考えるのだが、その日は明らかに変調をきたしていた。
「目、点になってるよ」
正面に立つ嫁が小声で話す。目が点になっている? どういうことだ?
「大丈夫、大丈夫だよ」と答える。既に何が大丈夫なのか、俺自身も分からないが、大丈夫であると答えるしかできない。
後日自分が出張先の自由時間に、観光施設をバックに自分撮りした写真で、その「目が点」状態を見ることになるのだが、確かにそうとしか形容できない。視線はどこを見ているかわからず、口元は一文字、顔全体として見たら無表情、何より目の瞳に光がない。黒ベタで塗りつぶしたように見える。光の加減もあったのだろうが、確かに「黒い点」だ。そうか、こんな目をしていたのだな俺は。
1週間後。とりあえずPC含めシステムを利用できるIDが発効され、ようやく本格的な仕事開始。営業なので取引先への挨拶回りを済ませ、前職場で関わりのあった人たちをチラホラ見かけ。ある程度気心知れた人たちと仕事するんだからと思い直したのだが、後にそれが自分を追い詰めていくことになる。
気心知れた人たちだからこそ、その事情を察して何とか双方に良い条件をと思うのだが、双方組織の人間でそれぞれのしがらみがあるわけで。しかも10円・1円単位の単価設定で侃々諤々のやり取りをしなければならない。荒んでいく心。それでも何とかしたいと苦悩し、上司と取引先の板挟み。どこにでもある営業の風景。
そして震災発生。その時、自分は事務所のあるビルの1階にいた。配属されてわずか2週間以内の出来事。金曜の昼下がり、今日はみんな定時で帰ろうという話をしていた矢先だった。船の中にいるような大きな揺れを感じ、それが数分収まらない。一度収まったかと思うと、余震でまた同様に揺れる。隣席でずっとワンセグを(常時ニュース含む番組をイヤホンつないで)見ていた部門長が震災の被害映像を見せてきた。
とんでもないことが起こっている。
仙台空港のカメラで地上機材が押し流されていく光景がはっきりと映されている。何だ? 洪水?
初めて見る、それは「津波」の脅威だった。
すぐさま事務所の全員が戦闘モードに入る。急遽発生した事態に、想定しうる今後の取引先の動きに対応する関係各所への連絡、情報の収集、本社からの非常事態対応指示待ち、などなど。それでも当日はまだ混乱も少なく(午後だったこともあり)3時間程度の残業で帰宅。
翌日のニュースで被害の大きさを知る。
週が明け、本当の混乱はここから始まっていく。柔軟な対応を掲げ始めた本社から、毎日の様に計画変更の通達が届く。折しも年度末、取引先も新年度計画をほとんど組み上げて最終の調整に入っていた時期に、本社からの変更を伝えなければならない。最初は事態が事態だけに、双方仕方ないねという雰囲気だったが、それが毎日続き月末になってくると罵声しか飛んでこなくなる。取引先に顔を出そうにも、二転三転する変更計画を噛み砕き元の条件に近くなる調整を行ってから提示しなければならないため必然的に事務所に缶詰になる悪循環。
3月下旬。明け方3時過ぎに目が覚めるようになる。朝6時に設定した目覚ましが鳴るまで3時間。まだまだ眠れるな、と思い目を閉じる。自分は寝付きがいいのですぐに眠れるのだが、また目が覚める。時間は30分後だったり1時間後だったり。
異変が起きはじめた。
北海道の3月は想像通り日中でも10度に満たないため、朝はストーブを焚く。節約のために起床時間の10分前にタイマーをセットするのだが、その点火音で目が覚める。
3月末。弁当のためにセットした炊飯器の起動音で目が覚めるようになる。朝6時の概ね1時間前からスタートするため、5時には目が覚めてしまう。その頃には、中途覚醒が
午前2時頃から発生するようになっていた。
熟睡できない。こうして3月が閉じていった。