Think Like Talking.

趣味や子育て、ゆるい生活をつづる備忘録

元気だしなよ

 今年一発目の「明るい抑うつ闘病記」。

・元気だしなよ

 抑うつになってわかったことがある。

 常に常に元気で居ることは、人間にはできないということ。

 そりゃあ明るく笑っていられたらそれはそれで楽しいし、周りの人も幸せだ。でも、人間のエネルギー自体も有限である以上、そしてどんな人間でも日々が平坦ではない以上、元気をなくす日は必ずある。それは単に疲れだけかもしれないし、心が疲れてしまうときもあるだろう。

 

 よくある「いつも元気でポジティブに!!」という言葉を、信じられなくなった。というか、そんなことを続けられるのは、怪しい宗教かメソッド、もしくはなんらかの薬でも無い限り無理なんじゃないかと。

 

 うつになる前、なるべくなら笑って居て周りの人に心配をかけないようにしていた。高校くらいまでの自分は、親しい人の中以外はあまり喋らず、少し考えこむと人が寄ってこないくらいの雰囲気だったらしい。大学に行って室内楽のサークルに入り、人と否応なしに関わらなければならなくなった頃、生来の気質というか話好きな面が回復したらしく(小学生くらいの頃はよく話すガキだったらしい)、そこから仕事を始めたりで「明るくてよく喋る人」というイメージが定着した。

 なので、俺が喋らないというのは却って周りに気を使わせたり、不機嫌に思われたりするようなので、それを避けるためにあえて笑っていたりした。勿論、嫁やある程度気心の知れた人間に取ってはすぐに分かるレベルのものなのだが。

 

 抑うつになってから、無理して元気で居ることはないとデイケアで感じるようになった。人間のバイオリズムがあり、その浮き沈みがあるのが自然なことで、抑うつの場合はそれが極端に発生し回復が難しかったりすると。薬でその振れ幅を制御し、その間に対処法を身につけ、薬がなくても大丈夫なようにするのがデイケアだったりする。

 ただ、大事なのはデイケアを卒業し、日常生活に戻り、抑うつになった職場(もしくは環境)に戻らざるを得なくなった時、それをどれだけ制御できるかということにかかってくる。変な話、抑うつになったことのない人(かかっていないと思っている人)にとってはある程度そうした「心の疲れ」に対してバッファがある。もしくは、減少した精神力を回復するのに時間がかからなかったりする。しかし、抑うつ・鬱になった人に取っては、そうした「精神力の枯渇状態」に陥るまでの時間が短かったり、枯渇状態から回復させるのに時間がかかったりするのだと知った。

 例えて言うなら、RPGでいうMPみたいなもんだ。同じ魔法を使うにしても、それが少量で済む人もいれば、大量に消費しないと発動しない人がいる。減ったMPを回復させるのに、宿屋に泊まれば回復する人もいれば、自然回復を待つしか無い人もいる。厄介なのが、人付き合いや日常生活を送るために、常時MPを消費し続けなければならない場合。まさにこれが、「常に元気で笑顔でいる」こと何じゃないかと思うのだ。

 

 悩みのない人間など存在しないし、人より人間関係に神経質でそれを維持するために常に笑っていなければならないと強迫観念に駆られる人も居る。うちの嫁もそういうタイプだ。でも繰り返す通り、人間の精神力は無限じゃない。日常生活や仕事をしている限り、常に何かのエネルギーを消費していることになる。だからこそ休みが必要だし、その権利を持っていると心得る。

 

 よく年休を取るのが嫌、抵抗があるという話を聞くが、確かにそれもわかる。職場の他の人に迷惑をかけるだとか、正当な理由がどうのこうのだとか。自分もまだその辺りの抵抗感があって、長い連休など取る気になれない。

 でも、抑うつになって少しだけ変わったところがある。

 それは「無理をしない」ようになったこと。

 そんなことか、と思うでしょ。でもね、じゃあその「無理をしない」具体的な方法ってなんだろう。

 体力の限界点まで働く、とにかく休まないというのが正義という風潮がある。それも社会人として必要な要素かもしれない。でも思うのは、それは誰もが出来る働き方じゃない。例えば30代前半までそれができたとしても、後半・40代になったらできなくなる(力任せでいけなくなる)。そうしたもっとダメージが大きくなるような働き方で、取り返しの付かないことが起こることもある。

 「無理をしない」、イコール自分は「嫌だと思ったら少し間合いを取る」ことだと思うようになった。仕事の中で、どうしても馴染めない、自分に向いていない業務や時期があるなら、のらりくらりと間合いを取る。他の人でもできるんなら、それとなく頼む。仕事に行きたくないという日があるなら、ぶっちゃけそのために休みを取ったっていい。深くダメージを受けてまたベイルアウトになるより、その手前で上手に息抜きや間合いを取って体勢を立てなおして、その分パフォーマンスを回復させて仕事に臨めばそれでいいと思う。

 頼まれたら断れない、断ったら評価が下がる・人の印象が悪くなるというのは、ある意味自分が作り上げた幻想でしか無い。ていうか、「そんなのは自分の仕事じゃない」みたいな身も蓋もない断り方をする人に比べて、自分の断り方はそんなにひどいもんか? いつも人一倍いろいろやっている上で、1つ2つ断ったって、バチは当たらんさ。

 だいたいそれで評価を下げるなんてな、例えば上司であればその程度しか見ていない盆暗上司だ。日常の働きぶりを見て、オーバーワークだと思えばその辺制御するのも上司の仕事の一つ。自分はそうありたいと思うし、そうでない役職者なら手腕を疑う。ノルマと制限の中で仕事をするのは誰もが同じかと思うが、それを極限まで意識させずに仕事に集中できる環境を作る事こそ、上司の仕事なんじゃないかと、部下を持って思う。そりゃ全くゼロってわけにも行かないが。

 

 話が大幅にそれたけど、それくらいの緩さで仕事して生きるというのが、いかに難しいことか。「真剣に、集中して生きる」ために「常に元気で居る」というのが大事なんだろうと世間一般は考える。

 でも、抑うつになってから「自分の人生をまっとうするため」という前提条件を置いた上で、自分の特性を把握して「心が楽な方向を選び」「心がそうありたいという生き方をするために」「真剣に、集中してぐうたらする」、という生き方をするようになった。

 あるキャラクターの「なにもしないをしている」というのではないけど、ちょっと皆様考えてみて欲しい。

 休日に、何物も考えず、身体が欲する睡眠をどれだけ取れるだろうか。

 遊びに行って、なんのしがらみ懸念を置き去りにして心からしたいことをし、欲しい物を手に入れることができるだろうか。

 きっと、しなきゃならない雑事で起き上がらなければならなかったり、後のことを考えてしたいことや欲しい物を我慢したり。意外に心が望むように、真剣に自分のためにぐうたらするというのは、難しいことなんだ。その意味でのび太くんというのは実はものすごく高度なことをやってのけている。そこにしびれるか憧れるかは別として、抑うつ・鬱の経験のある人は是非一度考えてもらいたい。そこまで自分の心のままに自分を受け入れることができているだろうかと。

 

 勿論、そうした事を実行に移すために、元気で居るということは大前提だ。それはやっぱり必要なことだし、元気が一番。でもその元気を手に入れるために、まずは休まなければならないことも事実。デイケアや休職も、そのための一歩。

 

 嫁にしても、最低限の家事をお願いしてそれも甲斐甲斐しくやってくれる。でも、彼女だって人間である以上、やりたいことや趣味だってある。いろんなしがらみがあってどうしても制限せざるを得ない範囲はあるけど、ささやかに彼女がしたいということは快く「やってみなよ」というようにしている。勿論、嫁も同様に「やればいいじゃん」と返してくる。そういう意味で、うちの嫁はできた嫁だと思うのだ。

 ただ、二人共抑うつを患った経験上、やっぱり「真剣にぐうたらする」ことが下手。俺は生来楽に生きたい方だからまだ良いけど、嫁はどちらかと言うと「苦労していなければ生きた感じがしない」ような体質なので、余計に厄介だったりする。難しいもんだ。

 

 今、嫁も復帰してから最大の危機(というか悩みどころ)が来ている様子。旦那としての俺は、せめて家での雑事を減らしてやるとか、ささやかな部分しか助けてやれない。本当はすごくもどかしいし、涙が出るほど辛い時がある。

 でも、自分もそうであるように、どうしてもそれを自分の力で乗り切らなければならない局面がある。だから、それ以外のところを支え続ける。

 元気で居られない日があったっていい。それを責めるのではなく、「そんな日もあるよ」と言える人でいたい。それが長く続いてしまっても、いつか元気になる時期が必ずくるのだから。

 

 横にいて、くだらない冗談を言って、数撃ちゃ当たるで笑ってくれればそれでいい。元気出せ、とは言わないうちの夫婦。ただ、心の嵐がおさまるまでそばにいる。結局、本当は人はそれくらいしかできないんだろう。