Think Like Talking.

趣味や子育て、ゆるい生活をつづる備忘録

風の引力


ASKA 風の引力

 前略、雲の上から。

・風の引力

 2月中旬からちょいとハードな仕事がたてこみ、敵は身内にもいると感じ、その上で「敵を作る覚悟がなければいい仕事はできない」という信念を実践してみなければ、という変な煮え方をして今に至る。や、しなきゃならん仕事は全部終わらせては来たんだけど。

 

 嫌われる、というのは怖いもんだ。

 でもその怖いってのは何が正体なんだろう。

 

 もともと一匹狼気質があって他のやつと同調して何かをするというのが苦手な人間ではある。大学でなまじ管弦楽という協調性を求められるサークルに入って、なんとか人並みの社会性を手に入れたようなもんだ。その頃からか、疎外感を恐れるようになったのは。

 人と違う、少し変わっているというのはまぁいいよ。同じにする必要は本来無いし、人と違うからこそ楽しい人生を送っていると思えているし。でも社会に出て何らかの仕事をしようとして、自分ひとりの力でこなせるのはたかがしれていると気づいたときから、その「協力体制」を壊す=仕事をこなせなくなることを恐れる、ってことか。

 

 圧倒的なパフォーマンスを持っている人間で、夜も寝ないでも大丈夫で、それでいて他の人に納得感があるという人ってのも、厳然として居るにはいる。自分がそうでないというだけ。

 

 ストレス、たまってますよ。人間関係上手く行かせるために。誰だってそうだろう。

「自分は言いたいことを言う」という人は、かなりの確率で他の人が言いたいことを言えば爆発するほど面倒くさい。更にいうと、「これが自分の性格だから」と押し切ろうとするわけで。そりゃ性格は変わらんさな。三つ子の魂なんとやら。

 せめて自分だけはそうでないように、と願うも、言いたいことすら言えない押し込められた時間に気づくと、どうしようもなく体中が締め付けられる。

 

 自分が言いたいことを言うということは、すなわち誰かの言いたいことを言う機会を封じてしまうことなんじゃないか。それはその人の責任、と言ってしまえばそれまでなんだろうけど、あまりにも乱暴な気がしてならない。「そう思うならそっちも言いたいこと言えばいい」って、言えない人はそれによって崩れるいろいろなことを、その身の中に吸収して人の関係を維持しているんじゃないか。

 

 ぐーるぐる。

 

 いいんだけどさ。

 

 仕事もプライベートも、なんとかかんとかやってるよ。

 色んな人のはけ口になって、散々雑巾みたいに吸収して。ほんの僅かな時間、自分だけのために過ごすことでもなければやってられん。

 

 他の人が息継ぎが必要なときは、浮き輪になって支えてやろう。何も言わずに。普段から無駄口が多いからなおさら、本当に必要なときは口数を抑えて。

恋の抑止力

久々にMGS PWをやった話。

 なにげにすごいタイトルだよな、冷戦下の中米で戦っている話の挿入歌で「♪放課後クラスに今は二人」とかって全然関係ないわ。

 PS Vitaを買った当時、ダウンロード版でソフトを買っていた時期があるのだが、まだPSPが現役だった頃なのでHD版なんて出ているわけもなく。で、もう7年も前にやってて最近なんとなくやりたくて引っ張り出してきたという。

 

 完全ステルス、とかのミッションもあるが、なるべく不殺での進め方をやってるうちに機動兵器(対戦車ミッションとか)相手の不殺とかを思い出すべくYouTubeで戦い方の参考を調べていた。すると、PWの次の時代に当たるMGSVのストーリー部分の動画を見つけてふーんと見ていたのだが。

 

 うわ、駄目だ俺。これは合わん。

 

 もう4年くらい前に発売されたゲームだからストーリーを追っている人はいいとして、ここまで来るとあまりにリアルすぎていろいろと生々しい。ストーリー上仲間を切り捨てなければならないシーンがあるらしいが、その部分でもう。ゲームとわかっていつつも、ちょっとこの流血シーンはなぁ。FPSとかでこういうのも最近普通に表現されつつあるんだろうけど、ちょっと俺は受け付けんなぁ。

 

 もともとMGS2くらいから銃弾の命中部位によって流血表現もあったし、ヘッドショットでの叫び声も生々しいことになっていたが、現代ゲームまで露骨な表現じゃなかったからなぁ。

 

 ふと、今の子どもたちがゲームに接するときに、こういう表現とかどう思うんだろうと考える。なんのゲームをしているか、どういう表現があるかとか、細かく親が見ているとは思えない。まして血が出るような生の接触(喧嘩や怪我も含めて)も昔に比べて少なくなっている今の世の中、果たして「血を伴う痛み」をどう学ぶんだろうと、おせっかいながら心配してしまうのだが。

 ゲームのレーティングがあるから、という声もあろうが、果たして武器を持つこと・それにより人の命がたやすく奪えてしまうことの意味をどう感じるだろうか。

 

 MGSシリーズは、腕によっては(ストーリー上の不可避を除いて)完全非殺傷というクリアができるのが究極。5は予告の段階からえれぇこと重たい話であり、判断するに結構救いの無い話でもある。

 操作とかゲーム的な難易度がどんどん上がってきているため、おじさんついていけんわ。

 

 そんなことを思った最近。


MGS PEACE WALKER キャラクターソング 「恋の抑止力」

氷の世界

第70回さっぽろ雪まつりをフラッと歩いてきた話。

 この3連休、寒かったぁ。

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・氷の世界

 第70回さっぽろ雪まつりは今日までだけど、フラッと歩いてきた話。

 先週金曜、年休を取り朝から病院のはしご。午前中の診察は10時過ぎに終わり、次の予約まで4時間空いたため、大通りまで移動して雪まつりの雰囲気だけを感じる散歩。

 といってもニュースでご存知かもしれないが、先週末の北海道は記録的な寒波が襲ってきたわけで。札幌の日中で最高気温マイナス10度、実に40年ぶりだそうだ。実際、札幌駅から駅前通りを大通り方面へ南下して歩こうものなら、ビル風も相まって顔がしびれるほどの寒さ。最初は道産子の根性見したる!!! と歩いていたが、北4条くらいで断念して地下歩行空間へ。紫外線もそこそこだったのか、調光レンズも最高レベルでサングラスモード。

 しかして三連休直前の金曜、しかも午前中ということでまだ観光客もまばら。歩きやすい街中をつらつら歩く。トップは大通駅から一番近いSTV広場の雪像

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 これはその次の区画。ここまで来てあまりの寒さにミッションアボート。周りでは道産食材の出店が多数あったけど、午後イチの診察が口腔外科のため口の中を汚したくなかったので我慢。

 札幌駅から別の駅まで移動しなければならないので2区画を回ったところでタイムアップ。子供を連れてくるのはインフルエンザの絡みもあるからちょっと憚られるけど、いつか興味を持ったら連れてきてやりたいかな。

 ちなみにその翌日=土曜の朝。これは命に関わる(笑)!!!

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 そんな三連休。



 

 

Automatic

 最近「もやぁっ」とした話。

・Automatic

 自動運転、というかドライブアシストの話を以前書いた。代車で来た現行フリードのホンダセンシング搭載車の話だったが、長距離などの運転時にドライバーをアシストしてくれる機能を初体験、便利というか技術に感心したものの、マニュアルシフトの運転が好きな人間にとっては少し違和感があるなぁ、という感じの記事にした記憶がある。

 

 さて、冒頭の「もやぁっ」っとした話。

 この自動運転というかアシストの導入というのが今何処のメーカーが進んでいるのかとんとわからねぇ。各社各様、レーンキープやら衝突防止機能の一長一短があるんだろうが、プッシュの仕方も各社各様。最初はスバルあたりが「ぶつからないクルマ」みたいな感じでアピールしてきたが、考えてみたらミリ波レーダーとかの市販車導入ってもっと昔にホンダがアコードとかで採用してなかったかなと。ともかくもそういう経緯から各社が取り組んでいる。それはそれでいいんだけど、今良くも悪くも話題になっている日産、あそこのCMってなんとかならんのかなぁ。

 

 というのは、技術の日産というのは別にいい。ゴーンの逮捕も裏のきな臭いあれこれもこの際横に置いておくのだが、どうしてもここのCMって昔からミスリードを誘うような表現だったり、よくよく聞いていると首をかしげるような表現だったり。

 

 や、昔だけど「世界で一番売れている日産車・ティーダ」というラジオCMがあったと思いねえ。

 これ、そのまま読んだら「日産車の世界販売の中で一番売れている車がティーダ」となるはずなんだけど、ラジオCMだと「日産車のティーダが世界で一番売れている」と音声だけで判断してしまいかねない。

 

 で、本題の「もやぁっ」(ようやく)。

 とある日産がスポンサーのラジオドラマ...いいや伏せるのめんどくせえ、日曜日に「あ、安部礼司」を聞くのが楽しみなのだが、上記のCMもこの番組内で聞いて首をかしげたわけで。で、最近日産は「インテリジェントモビリティ」をプッシュしているのだが、その企業CM。

 

ハンドルは...どこ?

手も足も使わない

「自動...自動じゃなきゃだめなの」

「100年の技術をすべてつぎ込むんだ!!!」

 と、群像劇のようにいろんな人たちの声が重なっていくのだが、最後の方に入る一言で「もやぁっ」っとなる。

 

「すべての人に運転する楽しさを」

 

...運転「する」?

 

 え? え? ちょっと待って? あなた方の狙っているのって「人間が『運転』しなくても走る車」だよね? その前に「ハンドルは...どこ?」って言ってるよね? どうやって人間が「運転する」の? え? え? 俺が古いだけ? 運転の楽しさって、車の動きを把握して、スムーズにクリアランスを見切って流れるように運転する、みたいなことじゃなくて? 人間の操作や意思が介在しないんだったら、それって単なる「移動手段」の一つだよね? わかんないわかんない!!!

 

 ね、「もやぁっ」ってしません?

 なんかね、こういうのあるのよ日産って。トヨタとかホンダとかの潮流をある程度の資本と技術で追うことはできるんだけど、どうもその方向性がずれているというか。CMプランナーなのかなんなのか、誰かが気づかなかったかなぁというか。

 

 というわけで、日曜の黄昏時に「もやぁっ」っとしたお話でしたっと。

バケツのおひさんつかまえた

 これ知ってる人、どれくらいいるだろか?

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・バケツのおひさんつかまえた

 数日前、北海道ローカル局で「じゃりン子チエ」の劇場版が深夜に放映されていた。平成も終わる今の時期に放送して大丈夫か!? と思うほどの「昭和の描写」なのだが、昭和50年代に生まれてリアルタイムで見ていた(と言っても劇場版公開当時5歳)自分にとっては特別な作品でもあり。今回昔話に少しだけお付き合いを。

 

 大阪の架空の場所が舞台のいわゆる「昭和の大阪」感を満載した同作。端的にいうと、博打打ちの父親がいる小学生の子供がたくましく生きる(悲壮感は全く無い)漫画である。30代後半より上の世代であれば知ってる作品ではないだろうか。アニメにもなったしトップ画像の猫・小鉄で何となく分かる人もいるだろう。まぁ興味のある人は細かい内容を検索してもらうとして。

 

 さっきの通り、劇場版が公開されたのが81年だそうで俺の記憶(確か5歳頃)も間違ってなかったという。6歳離れた妹が生まれる前、うちは結構ギリギリの生活で。母親も入退院を繰り返して幼稚園にあがる前の俺が母方の親戚に預かってもらったりが年に半分くらい。外で遊ぶのが苦手なインドア派のルーツは変わらずで、今も祖母に「本を与えておけば何時間でも黙って読んでいた」と言われるほどの子だったそうな。

 そんな頃、この映画の今で言うムック本を親父が買ってきたんじゃないかな。フルカラーでいろいろ付録がついていた(思い出したがアイロンプリントとかも入ってたな)り、劇場版のほぼ全内容や「オイチョカブ」のやり方まで載ってたり(笑)。

 前述の通りに本を読むのが好きな子供だったらしいので、例に漏れずこの本も漢字が読めないなりに楽しんで読んでいた記憶がある。母が入院中の俺の世話をしに来てくれた祖母に「全部ふりがな振って!!!」と無茶ぶりしたそうな。そのおかげで、かなりの範囲の漢字を学校に上る前に読んでいた。

 

 幼稚園に上る前の時期、母親と離れて過ごさなければならない寂しさ。今の子供にとっては共働きが大半で珍しくもないかもしれないが、当時は専業主婦が当たり前の時代、早朝からパートに出て親父が出勤する頃に帰宅する母。入れ違いの数十分、俺が一人で留守番していた記憶。確かテレビで「一休さん」をやっていた。そんな時代。

 

 この作品も今見たらとてもじゃないけど再放送なんてできないだろうなあという内容。差別用語もわからないくらいあるだろうし、小学生に働かせてるだの酒を勧める描写だの博打だ喧嘩だとまぁ一言でいうと「治安の悪い」世界なわけで。でも、「昭和の空気」を思い切り閉じ込めたタイムカプセルでもある。

 今、3歳半の息子が俺の親父=じぃじと録画していたこれを見た様子で。なんのことやらという感じでケラケラ笑っているが、21世紀の親父=俺はどうやってこの子に教えるべきかを問われている気分。それと同時に湧き上がる、子供との向き合い方。

 

 俺がこの作品を見るたびに、懐かしいけどどこか寂しい「昭和」を思い出すように。

 今の息子がいつか2019年を思い出すのは、何を見てだろうか。その時、少しでも寂しさより楽しい記憶になるだろうか。

 子供の頃の記憶にふれるたび、そう思うことが増えた。

 人は子供を育てながら、自分の人生を追体験しているなんて言われるが、本当にそれを実感している。難しい。

 

 腰の爆弾を気にしながら、少しでも息子と交流すべく簡単に絵を描いたりする。と言ってもトミカをデッサンしたり、トップ画像のように検索した画像から模写してみたりだけど。うちの親には「あんたにこんな技があったなんてねぇ」と。

 親父がしてくれたんだ。「これ描いて」と頼んだら、営業で一日疲れたろうに翌日の朝になったら枕元に模写した漫画が置いてあって。一番衝撃を受けたのはエルガイムマークII(じゃりン子チエじゃないんだわこれが)。素直に「親父すげえ!!!」と思った。

 

 息子が「とーちゃんかっこいい!!!」と、わかっているのかいないのかキラキラと叫ぶ。全身で嬉しさを表現して、怒られたら「嫌い!!!」とそっぽを向いて、すぐに「でも大しゅき」と甘えてきて。感情のジェットコースターをとてもまぶしく感じながら、少しでも「親父はすごい!!!」と思わせられるように「小さな魔法」を磨いておく。いつかこの子が記憶の引き出しを見返すときに、「ああ、あのとき親父が見せてたのはこれだったんだ」と答え合わせで楽しめるように。少しでも勇気を見つけられるように。

 

 昭和は遠くなりにけり、なんていうが。

 今の平成を生きている人に取ってはいつか「平成は遠くなりにけり」になるわけで。

 でも、人の営みは大きくは変わらないはずだ。

 

 大切な人を、大切にしながら生きていくんだから。

 

 なんて思った1月最後の日曜日。

 

 

Change!!!!!

 ブログの表示をほぼ5年ぶりに変更。

 

・Change!!!!!

 デザインだのファッションだのそういうものにとんと疎い42歳にして、昨日の氷点下吹雪に2時間さらされた脳が何かに突き動かされたのか、要するに気まぐれですハイ。

 ネット初期の頃、ホームページビルダーだのを使ったりNetscapeNavigatorのHTMLエディタだのを使って自分で作成していた頃は、こんな複雑な構造だったりリンクを自動作成したりとかってのは考えられなかったなぁ。もう20年も前かよ!!!

 今では基本のデザインはクリエイターさんが作ってくれていたり、その基本を使ってアレヤコレヤを自動的に制御してくれたりと。便利になったもんです。

 

 駄菓子菓子。吐き出す駄文はコンプライアンスだの炎上回避だので微妙に切れ味・苦味・酸味が失われている気がする。後味はスッキリかもしれないが。

 

 このブログも開始当初は賃貸アパート・子供も生まれる前だったので趣味全開だったが、現在は趣味そこそこ・子供のあれこれなんかも話題にするようになったわけで。時間の流れってのは面白い。

 

 というわけで、ブログデザイン変更のお話。気分なのですぐ戻すかもしれんけど。

221B戦記

 何が「不平等」だ。

・221B戦記

 タイトルは筋肉少女帯の曲で。この歌に限っては水木一郎さんや宮村優子さんが参加してた記憶。

 ネットのニュースを斜め読みながら、若干胸糞悪いネタを見た。

www.nikkansports.com

 この人に関しては会ったこともないし、人格的にどういう人なのかも自分では判断することも言及することもはばかられる。そりゃまぁ女性関係だの金の使い方だの、いろんな賛否はあるだろうけど、ことこのニュースに限っては批判してる側に対して「何言ってんの」と言わざるを得ない。

 

 簡単に言うと、心臓病の子供をこのシャッチョサンが支援することに対して「その他にも大勢の心臓病の子供がいるのに不平等ではないか」という批判があると。

 

 黙れ俗物。

  人生なんてな平等でも公平でも無い。不条理の連続だ。その中で、わずかでも目に止まった人に対して援助をする、その力があるから手を差し伸べると言うのはこのシャッチョサンの言うとおりじゃないか。何千人、何万人もいるであろう人たち全てを助けることは難しい。このシャッチョサンを批判している奴は、ネットに書き込む暇があったら自分の財産投げ売ってその子どもたちに援助してこい。

 誰もができないことがある。その中で、慈善事業に力を向ける金持ちに対して「偽善」と攻撃する層がある。黙れよ、「やらない善」より「偽善も善」だ。

 

 確かに、もし自分の子供が同じ境遇だとして、「その援助がどうして自分の子供に向けてもらえないのか」と思う気持ちになるのも痛いほど分かる。でも、他の子にも確かにそれを救いたい親がいて、その子が救われることで自分にも可能性があるかもしれない、その活動をもっと広めてもらう・病気を知ってもらうという発想になりはしないだろうか。

 今回こうした批判を匿名で、反撃の届かないところからネチネチと行っている奴らはおそらくそんな境遇にはない。その境遇真っ只中の人は、きっとそんな暇はなく病気を持つ子供と向き合っている。日々すり減らす命そのものを、「そんな精神で無駄打ちするな」と教えている。ただ誰かを叩いてストレス発散したいだけの奴らの考えなしの書き込みで、確かに救えたかもしれない誰かのチャンスを潰しかねない。

 

 自分だって誰かに振り分けるだけの財力なんて無い。日々自分の生活で手一杯だ。でも、誰かの善意で世界が動いていることに対して足を引っ張るようなつまらない真似はしたくない。

 

 年明けの一人100万円云々の話は別にして、こういう話は応援したっていいんじゃないか。

 

 そんな憤りを感じた、ネットニュースの一文。