Think Like Talking.

変わりゆく変わらないもの

荊にくちづけを

 もう6月が終わるんですな。イコール2020年が半分過ぎる!!!

 切りのいい年でオリンピックがあるはずで日常が流れるはずだった年だけど、ふたを開けてみたら様々なものが崩れ人が歪み世界が分断されて。それでも人間、どっこい生きている、と。

 最近思ったことをツラツラ。

 

「医療従事者の皆さんへの感謝を!!!」という字面を見てとても違和感。

 この前田園風景が和やかな場所(といっても札幌近郊を離れたら結構どこでもあるのだが)に、家族で移動。するとどことは言わないが畑の真ん中(道沿い)に唐突に上の字面。

 うん、感謝は必要だと思う。医療従事者の人たちのおかげというのももちろんだ。

 でもさ、それってこのフォーマットで表示すべきか。猛烈な違和感。

 

 この状況下で、見えない脅威を相手に戦っているのは間違いなく医療従事者の人たち。でも違う分野で社会を支えている人たち、それぞれの生活を戦っている人たちだって、知られていないだけで本来は感謝されるべきことなのではないか。

 そう考えると、医療従事者の人たちに対しての表現は「敬意」なんじゃないか。ほとんどの人たちがその職務と理念において、本当は逃げたくても逃げられない状況下で踏みとどまり命を守る。それぞれの生活や命だって守りたいだろう、それを押し殺して誰かを救う。その意志と誇りに対する「敬意」。

 

「感謝」とは。もちろん優劣はつけられないだろうけど、むしろいまではなくても普段から互いに伝え合わなければならないものではないか。こんな人に対しての攻撃性が高まっている(少なくとも戦後の近代において)世の中において、人の人たる理性と優しさを取り戻して維持するための手段として。いや、手段ではない、人の心の根源としてあるべきではないかと。

 

 息子の幼稚園の先生と話す機会があった。

 ちょっと坂が急な小山にクラス皆で登り、そこから降りてきたらしいのだが、ちょっと臆病な息子、高いところから怖くて降りられなくなった。少し前なら助けを求められずポロポロと黙って泣いていたらしい。しかしその時は違った。

「怖くて降りられない!!!!」と叫んだ息子。

 先に降りたクラスの子たちが、山の上の方まで並んで息子の手を取り、バケツリレーのように下に降ろしてくれたと。先生が続ける。

「その後、〇〇(息子)さんがみんなの方を向いて大きな声で言ったんです。『助けてくれてありがとう!!! 嬉しかった!!!』って。」

 

 子供たちにとってその出来事が、大きいことだったのか小さいことだったのかわからない。もしかしたら同じように、高いところに上ることを怖かった子もいたのかもしれない。それでも息子を助けてくれたことに、おじさんは一人ひとりにお礼を言いたいし、みんなにお礼を言えた息子には「よく自分の気持ちを伝えたね」と撫でた。

 子供たちの社会の中で、大人の本来あるべき社会の原点があったのかもしれない。それはきっと経済や損得ではない、自分の妄執や歪んだ「正義」ではなく、ただ「誰かが困っているから」という動機だったんじゃないかと。

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 キレイさに心を許して不用意に触れれば傷がつくかもしれない。だからといって何もかもを疑い、何も確かめないで誤解のまま戦争するのも愚か。大人はいつからそんな道を進むようになるんだろう。

 そんなことを考える6月末。