Think Like Talking.

趣味や子育て、ゆるい生活をつづる備忘録

都市鉱山

 今年も24時間テレビが終わりましたな。コロナ禍でいろいろと試行錯誤されてたのをざざっと見た感想だけど。

 同時進行的にあれこれ挑戦だのやるよりは、家で大人しく見ていられるスタイルの内容や募金方法だのでいいんじゃないか。ところどころわけわからん演出が入るのがなければもっといいが。

 特にマラソンなんて、今回のエンディングを見ていて嫁と「いまだかつてこんなに終わりがさわやかなマラソンがあったか」という感想に至る。そりゃ長距離を走ったことのない人とかが、いろんな理由を付けて走りきるというのもそれはそれで「感動」の種にはなるかもしれんけど、見ている側としては「そんなことしないで募金した方がよっぽど精神衛生上いいんじゃ」と思うわけで。放送終了前の20時過ぎ、国技館に辿り着けるかを不安視されて、「負けないで」だの「ランナー」だのの大合唱はもういい加減いいだろう。あの瞬間に気恥ずかしさでチャンネルを変えたくなる。当たり障りのない応援も、これだけマンネリ化してしまえば台本みたいなもんだ。

 それを思うと、今回の目標100kmを18時頃=残り3時間のところで達成してしまった高橋尚子さんは素直にすごい。一般道を走らず私有地での周回、そして深夜休憩というのは本当の意味でランナーを保護するという目的に適う。やっとそこに至ったか日テレ。

 この放送がすべてボランティアというわけではない、ギャラも発生するだろうしスポンサーの金だって動くだろう。それを批判する向きもあるが、じゃあ果たして完全無報酬でどれだけの人間が24時間耐久に力を貸してくれるか。そんな綺麗ごとじゃすまんだろ、特にそんな世界を斜めに見るような奴ほど。

 自分も一頃この24時間テレビが嫌いで車に構えてみていた時期がある。それでも30を越えたあたりから、少し見方が変わってきた。障害のある方たちを見世物にするのではない、その人たちが苦しんでいる、普通に生きていたら聞くこともない病気が存在して、確かに戦っている人たちがいることを知る術がこの番組であり、そこから何かを考えるきっかけにすればいいのだ。また、微力だが世間にその姿を「さらし」て窮状を訴える人たちの覚悟を以て、何かできることはないかとみんなで考えるには、まだテレビという媒体は捨てたもんじゃない。

 そもそもこうした機会がなければ、どれだけの人が募金に手を出すか。目に見える災害があれば集まりやすいだろうが、そうじゃない物事に対するためには?

 そんなことを考えるようになった。

 自分がそうした人たちのためにどれだけのことができるかは不明。そういつもいつも何かをできるわけでもない。ただ、苦しむ人にささやかでも何かをと感じる心までを失いたくないだけだ。

 綺麗ごと、偽善、大いに結構。それもできなきゃ、とてもじゃないが子供の世代に願いや思いを託すなんてできないだろうし。

 

 なんて思いながら、今年も24時間テレビ終了=北海道の夏も終わりというお話。